水界線に二人きり

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「やあ――セレスト! 奇跡だな、君の上に屋根が残っているなんて。だけどやっぱり吹き込むようだね。お姫様を濡らして悪かった。ちょっとこの傘を持っていてくれ」  腕の間に、勝手に傘の柄が差し込まれた。青年は防水布らしいコートの前を開け、体に括りつけた袋から布を取り出して、まず少女の頬を包んだ。続いて湿ったドレスの背中を開きにかかる手つきは優しく、「失礼」とわざわざ断られては、紳士と認めるしかない。くすんだ金髪がほつれていて、上着に刺繍も袖口飾りもなく、大きすぎるブーツを履いていたとしてもだ。  係員がこの場にいたら、彼は追い出されていただろう。この移動遊園地の客は身なりの良い男女や家族連れ、もしくは貧しそうな子どもたちという対照的なものだった。青年はいずれにも属していない。 「良かった、(さび)は酷くないね」  セレストはほっとした。壁のポスターが()びていくように、自分の中身も侵されていそうで不安だったのだ。  「繊細な機構」を拭う青年の手は遠慮がちで、機械に慣れたふうではない。けれど肩に触れている指の温度が懐かしく、少女は落ち着いて身を任せた。肌にじんわり広がるその感覚を、温かさと呼ぶことは知っていた。机に水仙が飾られる頃、「暖かくなったね」と人々が言う。そんな季節の空気の感触だ。青年の体温は、記憶にある老技師のそれよりずっと早く、むき出しの肩に()み渡った。  青年が再びドレスを着せてくれたあと。(うなじ)にぜんまい鍵がさし込まれたのを感じて、セレストは目を丸くした。  技師が鍵をしまい忘れたのか。青年に私の扱い方が分かるだろうか。ぜんまいを巻くだけでは駄目。スイッチが頭の後ろにある。あと所定の位置に紙とインク瓶を……。    懸念された全てはすぐ解消された。青年の手順は完璧で、念入りに拭き上げられた机上に、紙とインク瓶も登場した。  巻かれたぜんまいとも違う、スイッチの抑制を弾き飛ばしそうほどの動力が、少女を満たす。動ける! 準備の整ったこの状態に、これほど胸が躍ったことはない。    青年が傘を取り、セレストの頭の後ろを撫でるようにして、スイッチを入れた。歯車が噛み合い回り出す。ジーッ、カタンと音が連なる。右手が机から離れ、ペン先をインク瓶へと滑らせた。正常だ、瓶を倒すこともなく、ちゃんとインクを切る動作もできた! 歓喜が軸の方から湧き上がる。    その感情の出所(でどころ)で、不意にざらついた音と振動が生じ、喜びの泡を叩き割った。いけない、と思うが手を止める術がない。内側の異変は間もなく、湿気(しけ)た紙面に滲んだ文字となって現れた。    ――雨が降らなければ    それだけ綴ったところで、肘が軋んだ。ペンが止まり、紙に無意味な青黒い染みが広がる。    青年が首を傾げて、紙を持ち上げた。  一番に考えたのは、礼儀知らずとは思われたくない、ということだった。実際、セレストはちゃんと挨拶のできる人形だったのだ。意図せず書いた手元の一文も、客を喜ばせるための言葉の一部で、不満を露呈させたわけではない。   「ははは、まったく、そのとおりだね!」  明るい声に不意を突かれ、青年を見る。唇だけ吊り上げた作り物とは違う、本物らしき笑顔があった。 
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