水界線に二人きり

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「名乗りもせずに失礼した。僕はエドワール。エドで構わないよ」  呼び合う機会もないのにと、セレストは課せられた沈黙に皮肉を織り交ぜる。  青年の態度は不可解だった。紙とインクを持参した彼の目当ては、字を書く機械人形(オートマトン)以外に考えられない。それが機能せず、雨の中歩いた苦労が報われないのに笑っているなんて、おめでたいとしか言いようがない。  戸惑い苛立つ少女の向かいで、青年が客用の椅子にかけ、袋から油紙に包んだ封筒を取り出す。セレストははっとした。慎重に開かれたその中の、黄変した紙。そこに書かれた文字に見覚えがある。    ――ご機嫌よう! 私はセレスト。お会いできて嬉しいわ。ここは素敵なところでしょう。雨が降らなければ、朝から夜まで遊べるの。私もティーカップに乗りたいわ。紅茶は飲めそうにないけれど、お花の模様が綺麗よね。貴方はもう乗った? 感想を聞きたいわ。でもそろそろ時間だから、またの機会にね。では良い一日を!   「別の町で一度だけ、君に会ったんだ。貴族の慈善事業の一環で、僕がいた孤児院の皆、招待を受けてね。噂のお姫様に会えて、本当に嬉しかったよ。十五年も経つけど、憶えているかな? ヒマワリを置いていった男の子」    退色した文字を読み返す彼が、あの日の少年? 結びつかない。物を摩耗させる時の流れは、人間にとっては大きくなるための養分なのか。  しかし彼があの日の少年なら、ぜんまいの巻き方を知っているのも合点がいく。技師が花のお礼に教えたのだ。  昔一度教わっただけで、よく憶えているものだ。同じ月日を経た人形は、幾度となく繰り返し綴った文章さえも、書けなくなってしまったというのに。    少女が拗ねている間に、エドワールは古ぼけた紙をしまい直し、ペン先を整えると言って、傘とセレストの羽根ペンを交換した。ポケットにでも入れていたのか、いつの間にやら小ぶりのナイフを持っている。   「慣れているからご心配なく。孤児院で習字に使うペンを削っていたんだ。友達と遊ぶより、先生の手伝いの方が好きでね。皆、僕を『おめでたいヤツ』って仲間外れにしたから」  先ほども同じ判定を下されたとも知らず、青年が「酷いだろう」と同意を求める。その声は、本当に酷いと思っているのか疑わしいほどに穏やかだった。   「僕は親の顔を知らない。でも孤児院には、そうじゃない子も多くてね。持っていたものを失うより、最初から持っていない方がましだと言う彼らとは、衝突してばかりだった。だけどどんな意地悪をされても、僕は泣かずに笑ったよ。それで『おめでたい』って言われたんだ。でも僕は、親も同然の先生達に心配をかけたくなくて、強がってただけ……。おかしいよね、そんな見栄を張るなんて」  そんなことはないと、セレストは経験から判断した。彼女は自分が、一部の子どもにとっては恐怖の対象であることを知っていた。泣いて親にしがみつく子に、引きつった笑顔で耐える子。エドワールが後者だとしても、極端な少数派ではない。  ただ、心配をかけたくなくてというのが怪しかった。手間のかからない、良い子でいたかっただけなのではと思えてならない。彼女自身がそうだったからだ。  ひとりで何もできない分、せめて望まれるように円滑に動いて、技師や係員を困らせないようにしたかった。セレストという機械人形の存在価値を守るために。   「不思議なもので、強がりを続けるうちに、どれが自分の本心だか分からなくなってしまってね。辛いと思う。平気だと言う。嫌と思いつついいよと言う。感情も言葉も立ち消えて残らない、確かめようがない。全部自分が自分に()いた嘘なんじゃないかと思えてくる。君に会ったのは、心が真っ(たいら)になったようで戸惑っていた頃だったな。ポスターを見て憧れたお姫様の『会えて嬉しい』って言葉が、僕は心底嬉しかった。何よりそれが、消えない文字だったのが良かったんだ。僕が幸せを感じた瞬間を、君の字を見るたび思い出せる。この世界に幸福が存在することを、忘れないでいられる。だから」  セレストは不意に、罪悪感に襲われた。自分はずっと、客を欺いてきたのではないか。皆を喜ばせたい気持ちはあった。しかし長雨の中、気にかかったのはこの身のことだけだった。動けなくなれば価値がなくなると。  つまりペンを動かし続けたのは、自分が認められるため。技師が設定した定型文の朗らかさで私欲を隠して、感謝すべきあの日の少年をも騙していた。いや今も、騙し続けている。  冷える思考を、エドワールの手の温度が遮った。削り直した羽根ペンを握らせてくれる大きな手には、無数の傷がある。気づかなかった。今の今まで。   「何があっても、僕の気分は沈まないんだ」  世界が沈んでしまうとしてもねと、青年はこともなげに付け加えた。
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