水界線に二人きり

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「孤児院を出てすぐ、この雨に降られた。次々に町が沈んで……最後に身を寄せた北の古城で、偶然、君の技師のお爺さんに会ったんだ。土砂崩れに阻まれて、君を迎えに行けないまま、避難するしかなかったそうだ。僕が会いに行くと言ったら、貴重な雨具とぜんまい鍵を譲ってくれた。彼は――体調が悪くてね、とても悪路を進めないからと。確かに、急拵えの船を漕いだり、道なき道を歩いたりするのは骨が折れたよ」  青年の声が掠れている。休みなく世話を焼いてくれているのだから、疲れて当然だ。そもそもここへ来る前から消耗していたに違いない。テントの中で想像するよりずっと、世界は雨に追い詰められていたのだ。道なき道とやらの厳しさを、持たされたままの傘の傷みようが語っている。  雨の降り続く世界が憎い。遊園地を閉園させ、動けない物達への救いの手を遮断した。「繊細な機構」を錆びつかせ、人形の唯一の取り柄を奪った。加えて気づきたくなかったことに気づかせて、自己嫌悪に陥らせるなんて。  セレストの思いをよそに、また新しい紙を机に置いた青年が咳払いをして、小さくこぼす。   「この状況は誰のせいだろう。人間はね、全ては雨の、世界のせいだと言って、露命を繋ぐ有様でなお争っているよ。衣類、物品、食糧、空間、皆奪い合いだ。セレスト、君はどう思う? この雨を降らせる世界が、人の心を捻じ曲げた悪者なのかな?」    青年には相手の心が読めて、あえて皮肉を言っているのではと、セレストは(いぶか)しんだ。  彼のことは何も分からない。本当は何を求めて来たのかも。なぜ人形相手に熱心に話しかけるのかも。  ぜんまい鍵を手に立ち上がった青年の傷だらけの手は、相も変わらぬ配慮された力加減で、少女の肩に触れる。   「君にあげたヒマワリは、僕が育てたんだ。花が好きでね、水やりは欠かしたことがない。ちょっとかけすぎたこともあったけど――もしかしてその根元で、蟻か何かが溺れているかもしれないなんてことは、考えなかったな。この雨も同じかもしれない。あの雨雲の上には花が植えられていてさ、誰かが水やりに励んでいる。でも水が多すぎて、花も雲も吸いきれない分が地上に降る。……どうせ溺れるなら、世界を滅ぼそうなんて悪意にじゃなくて、配慮の足りない善意の方がいいなあ」  誰もが呪う雨空に、そんな背景を思い描くのは彼くらいだろう。けれど雲の上の世界を知らない以上、否定もできない。確かなのは雨が降り続ける世界、その存在だけだ。 「素敵な想像だと思わない? こんな考え方を、君が教えてくれたんだよ。君が書いてくれた文章、あれと同じ言葉を受け取った人は数知れずいる。人形が字を書くなんてすごいなとか、決められたことしか書けないのかとか、思うことはそれぞれだろう。僕みたいに、救いを見出す者まであるんだ。同じ言葉の羅列に、だよ。考え方、それだけなんだ。幸も不幸も善悪も」
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