70人が本棚に入れています
本棚に追加
ああ、少なくとも彼にとって、私の言葉は嘘ではなかった。
安堵すると同時に、青年がスイッチに触れた。軋む体とは逆に、ペン先が滑らかに紙の上を動く。傘を取って差しかける青年はにこやかに、文字が並ぶ様子を眺めていた。
――雨が降らなければ
「お金のない僕は、この遊園地に巡り合っても、入れなかったね」
――雨が降らなければ
「すぐ止むような雨ならば、二人きりにはなれなかった」
――雨が降らなければ
「君が壊れることはなかったね。その不満はもっともだ。だけどね――僕は君に、世界を嫌いにならないでほしいんだ」
例え動かなくなったとしても、僕は君に価値を感じるからと、青年が囁く。少女が最も強く求めていた言葉。その優しい響きは、セレストの錆びついた心に油をさした。
汚れた上着の向こうの、黴びたポスターが目に入る。未練がましいと嫌っていたそれさえ、今は健気な頑張り屋に見えた。
そのときセレストは気づいた。青年の連ねた言葉の意味に。
彼女はポスターに自分の心情を重ねていた。青年が考え方次第と言ったとおり、ただ壁に残り続けるポスターという存在に、勝手に捻くれた意味を見出していた。彼女自身の、戻らない華やかな日々への未練を映して。
青年もまた、人形に自身を映しているのだ。雲の上に花が植わっているなどと、彼自身信じきれてはいなくて、それでもまだ世界を愛したいがために足掻いている。人形に話しかけ、そこに映る自分を納得させて、強がりを実勢に変えようとしているのだ。
理解しがたかった、青年の楽観主義。それが不完全と分かったとたん、揺るぎない青年の姿が縮み、ヒマワリを手にした少年に戻ったような気がした。同じ高さに目線があった、あの頃の姿に。
少女は背筋を伸ばす。青年は心の写し鏡として、セレストという人形を求めた。私がどんな言葉を書こうと、その結果に彼は何らかの意味を見出すだろう。でも彼は大切な、おそらくは私の最後の客だから――心から、笑ってほしい。彼が自己嫌悪の嵐から救ってくれたように、私もまた彼を救いたい。
書かなければ。何か、的外れでもいい、彼がせめて一歩、踏み出せるような言葉を!
止まりかけた手に、カシン、と軽い衝撃が伝わって――ペン先が新たな文字を綴った。
――ティーカップに乗りたいわ。
一瞬の沈黙ののちに、笑い声が降ってきた。コートを脱いだ青年が、大きく頷く。
「いいさ、雨の日は君もお休みだ。好きなことをしていいに決まってる!」
体に回された腕も、頬に当たった胸元も、ヒマワリをもらったあの季節の空気ほどに熱を帯びていた。
最初のコメントを投稿しよう!