水界線に二人きり

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 テント前の階段の下は、青年の足首の高さまで水が来ていた。  濡れたティーカップの座席にコートを敷き、よいしょとセレストを下ろした青年は、「ごめん、別に君が重いわけでは」と語るに落ちたようなことを言い、乱れた息を整える。 「お姫様とティーカップに乗れるなんて、夢みたいだな」  カップの真ん中のテーブルは、セレストにぴったりの高さだった。これはいいと、青年は二度目の拭き上げ作業をする。傘で覆える限られた場所に、彼は何とかインクと紙をセットして、ぜんまいを巻いてくれた。  滅裂な文章でいいとなれば、書くことは楽しい。移動も功を奏したのか、テントで書けなかった言葉もペン先から現れる。  しかし一言書いては止まるので、青年はそのたび笑って羽根ペンを取り、少女の文字の横に自分も書き加えてから、スイッチを入れ直した。 ――セレスト 「エドワール」 ――素敵 「ありがとう!」 ――雨が  セレストはひやりとしたが、エドは軽い調子で続けた。 ――雨が降らなければ 「本物の紅茶をご馳走したよ」 「このカップの中、塗装が剥げて茶色くなって、紅茶を注いだように見えないか?」    人間も人形と同じことを考えるらしい。  少しずつ、青年と自分の境界が曖昧になる。休園明け、技師に整備されるときと同じ、寂しさの癒える感覚だ。雨が上がらない限り望みはないはずだったのに、温かい青年が晴れ間をもたらした。  彼はこの時間を夢みたいだと言った。セレストも彼の人影を見たときに、そう思った。でも人形は夢を見ないのだから、これは現実だ。この幸せはまぎれもなく、現実。 ――ティーカップ 「最高だね」 ――花 ……ヒマワリらしき花の絵。 ――貴方は 「君のことが大好きなエドワール」 ――そろそろ時間 「残念だ」 「ああ、幸せだ。やっぱりあの雲の上には花が咲いているんだよ。空まで水が届いたら確かめられるね。雲の上の誰かに頼んで、また君に花を贈るよ。ヒマワリが咲いているといいね、セレスト」  覗き込んでくるエドと、目が合った。笑ったのだが、伝わっただろうか。  エドはもう、ぜんまいを巻かなかった。傘をセレストに預け、自分は濡れながら、楽しげに鼻歌を歌う。懐かしい遊園地の宣伝曲だった。  雨が頬に吹きつける。それもお構いなしで、セレストは傘が届かなくなって濡れていく紙面の変化に見入った。乾ききらないインクを雨粒が打ち広げる。傘から一番遠い、最初に書いた「セレスト」と「エドワール」は、真っ先に青く滲んで、一つになった。  忌まわしかった雨が、こんな粋なことをしてくれるなんて。セレストは嬉しくてたまらない。    エドはどうかと様子を窺おうとした瞬間、風に揺れた傘の骨組みと髪が絡まり、ぱちっと頭の後ろが弾けて、手が動いた。 ――ご機嫌よう!  綴った文字は傘から落ちる雫と共に、紙面を出て、テーブルの縁から滴った。  ああ今度はちゃんと、挨拶ができた。セレストは安らいだ気持ちで、青い雫を見送る。  鼻歌はもう、聞こえなくなっていた。
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