3人が本棚に入れています
本棚に追加
第一話
思い出すのは茨に咲いた白い花。
指の痛みをこらえながら棘を摘み、闇にまぎれて一輪だけ袖の中に隠した。
~*~*~
窓の下は、茨の這う垂直な煉瓦の壁だ。地面の様子は夜の闇に紛れてよく見えない。
そしてアーシャは木綿の簡素な寝間着を着ただけで、木靴さえ履いていない。赤茶の冴えない色の髪だけは、絡まないようリボンで結んでいた。
普通なら、部屋の外に出ることさえためらう格好だ。
「だからって、大人しくしてられないもの」
アーシャは自慢の頑丈な歯で、食いちぎるように寝台のシーツを破る。それを両手足に巻き付け、いざ窓枠を乗り越えた。
太そうな茨の蔓に足をかける。
蔓はしなりながらも千切れたりはしない。布を隔てても茨の棘が足裏や手のひらをちくちくと刺すが、我慢できなくはなかった。
いける。
アーシャはそう判断すると、急いで茨をつたって暗い地上へ降りた。
よもや窓から脱出するとは思わなかったのか、降り立った館の庭に警備の人間はいないようだ。ほっとしたアーシャだったが、
「あ、こらアーシャ!」
二階の窓が開いて、中から叫ぶ人影が見える。
クセのある茶色の巻き毛をした青年。彼は貴族風のジャケットにひらひらとしたクラヴァットを身につけている。彼こそがアーシャを攫い、自分の屋敷に閉じ込めた本人、この周辺の地主であるロンハだ。
「一体何が不満なんだ!」
「全部に決まってるでしょう! こんな誘拐みたいな真似されて、結婚するわけないじゃない!」
捨て台詞を残しアーシャは走り出す。棘に刺された足が痛んだが、かまっていられない。
ここにいたら、数日後にはロンハの妻にされてしまうのだ。
ロンハはついこの間まで、貧乏牧場の小娘とか、みずぼらしいさび色の髪だなんだと、顔を合わせる度アーシャに悪口を言ってきた人間なのだ。
しかも一ヶ月前、アーシャの両親が所有している丘を売るよう交渉しに来て、追い返されている。丘が欲しいがためにアーシャと結婚するつもりに違いない。
そう疑ったアーシャは簡潔に「お断りします」と答えた瞬間、ロンハに攫われ、婚礼の日までゆっくり滞在してくれと館の一室に閉じ込められてしまったのだ。
しかも本来なら親がアーシャを返せと言いにきてくれるはずだが、それを期待するわけにはいかない理由がある。
「前世を思い出したなんて、絶対嘘よ……」
このアロイス王国は、前世の記憶を持つ者が尊ばれる。
時と運命の神ラトレイアの恵みが深い証明、とされるからだ。
そのため前世を思い出した者が、前世で縁あった者との婚姻や養子縁組を望んだ場合、司祭達の承認を得てしまえば、身分差があろうと誰も異論をとなえられなくなるのだ。
ロンハは前世を思い出し、それを司祭の秘術である『審判』によって検証し、承認されたと言っていた。反論すれば、神さまの意志に反したと周囲から責められるだろう。
これを覆す方法は、実は一つしかない。アーシャも『審判』を受けてロンハが嘘をついていると証明することだ。
が、アーシャには審判を避けたい理由があった。
そのためアーシャは次善の方法として、王都の祭司府へ行き、中央にいる司祭にワイロで審判をねじ曲げたことを告発しようと考えたのだ。
森のように広い庭を駆け抜けたアーシャは、ようやく館を囲む塀までたどりつく。ここも防犯対策か単に生息地だったのか、塀にはこれでもかと茨が這っていた。
茨は嫌いだ。嫌な夢には、必ず出てくる。
けれど今はそんな理由で尻込みするわけにはいかない。茨を利用して塀の上まで登ったアーシャは、
「しまった」
塀の向う側には茨がなかった。
高い塀の上だ。飛び降りたら骨折ぐらいはしそうな気がした。
恐くて、塀の上にしゃがみこむような体勢のまま動けなくなった。その時、遠くから騒ぐような声が聞こえてきた。だんだんとアーシャのいる場所へ近づいてくる。
迷ってる場合じゃない。やらなければ。それに後ろ向きな思惑だが、骨折したら完治するまでは結婚話も延期されるはず。
(飛べっ、アーシャ・リネイス!)
アーシャは心の中で叫び、自分を鼓舞した。
そして思い切って塀から飛び降りる瞬間、
――地上に月が落ちてる。
そう思ったのは、黒い衣服を纏ったその人が綺麗な金の髪をしていたからだ。
「あぶなっ!」
ぶつかってしまうと叫んだアーシャは、他人様を蹴り倒す大惨事を想像して背筋が凍る。
が、その人は慌てず、しっかりとアーシャを受け止めてくれた。
相手に怪我をさせなかったことにほっとして、アーシャは胸をなでおろしてお礼を言おうとして――彼の顔から目が離せなくなる。
月色の髪をした青年が、目を見開いてアーシャを見下ろしていた。白皙の頬をした秀麗な顔立ちの中、南天に輝く星のような銅色の瞳が印象的な人だ。
アーシャよりも数歳上だろうその人に、瞳が吸い寄せられたまま離れなくなる。どこか懐かしい気持ちにさせられる、月色の髪が風に揺れている。
呆然としていたアーシャだったが、ふと彼の服に気づいた。
「司祭……様ですか?」
黒い詰め襟の上着と下衣に、黒に銀糸のクロークを纏うのは司祭の正装だ。銀の留め金には、茨が彫り込まれている。
しかし青年はアーシャの問いかけに答えない。
彼も何かに驚いたようにアーシャの頭を凝視していたのだ。
が、やがて我に返ったように地面に彼女を降ろしてくれた。それからアーシャの髪に絡んでいたのだろう、茨の葉と花弁をそっと取り払い、ようやく答えてくれる。
「確かに私は司祭職にある。王都へ戻る途上で通りがかったんだが、一体……?」
なんて幸運! と思いながら、アーシャは息せき切って頼み込んだ。
「お願いします司祭様! ここの土地の司祭がワイロをもらって審判をねじ曲げようとしてるんです! なんとかしてください!」
両手を祈るように握りしめて見上げると、困惑した様子だった青年が眉をひそめる。
「審判をねじ曲げていると?」
「この辺で一番の地主のロンハって男が、結婚でうちの土地を自分の物にしようとしてるんです。このままじゃ、偽の審判結果で結婚させられちゃうんです!」
アーシャはこれまでのいきさつをかいつまんで説明した。
おおまかな話を聞いた青年司祭が、少し思案した上で何かを言おうとした時だった。
「見つけたぞ!」
大声を上げ、松明を持たせた従者と黒衣の老人と共に走ってくる者がいた。ロンハ達だ。
「我が麗しの花嫁よ、機嫌を直してくれ。私達の愛の巣へ戻ろうではないか」
「結婚するつもりはないって言ったでしょ!」
愛の巣ってナニ!? と、気持ち悪さに背筋がぞっとしたアーシャは、反射的に怒鳴ってしまう。が、ロンハは余裕の笑みを浮かべたままだ。
「婚儀の式には君の両親も呼ぶんだぞ? 先ほども挨拶に来てくれて、涙ながらに娘を頼むと言っていた。婚礼までちゃんと君を預かるからと約束しておいたからな」
ロンハの言葉に、アーシャは思い切り顔をしかめてみせた。
「嘘つき! 誘拐犯!」
「何を言うか。審判は神聖なもの。私の審判結果を司祭殿に説明いただいて、ご両親も納得しただけのことだが? なぁグレブ司祭殿」
「それはもぅ。ロンハ殿の審判結果によりアーシャ殿がご縁のあった方だと判明したと話しましたら、ご両親も納得して帰って下さったのですよ」
一見すると好々爺にしか見えない老司祭グレブが何度もうなずく。
アーシャは唇を噛みしめた。
司祭から直接審判の結果だと告げられたら、引き下がるしかないではないか。
「では、審判を受けたのはその男だけで、この娘は受けていないのだな?」
唐突に話に割って入った青年司祭に、ロンハが眉をひそめた。
「そちらはうちの花嫁に何の用ですかね? 着衣から司祭殿のようだが」
「この娘から、審判に疑いがあるとの告発を受けている。この案件は私が預からせてもらうこととする」
「し、しかし祭司府所属の者でなければ、司祭の審判に対する審査権はないはず……?」
首をかしげるグレブ司祭に、エクレシスは堂々と言った。
「証明ならここにある」
そう言って青年司祭は、懐から小さな巻紙をとりだした。
いや、紙ではない。布だ。
厚手の布は、縁が金と朱の糸で縁飾りがほどこされ、中央に文字が金と緑の糸で綴られている。水に濡れようとも決して文字が消えぬよう、特別に設えられたその布書簡には、紅の翼持つ竜と太陽を意匠化した紋章が縫い取られている。
どんな聖堂にも刻まれているからアーシャにもそれが何なのかわかる。
天上の王と呼ばれる祭司王の紋章。
このアロイス王国に住んでいる以上、幼い頃からこの紋章と共にたたき込まれている言葉がある。
国王は地上を統べる王。
けれど精神は天上の代理人である祭司王に従うべし、と。
「私は祭司府の枢密院顧問官エクレシス。この娘アーシャの訴えにより、私が祭司府にて『前世法』に基づく審判を担うこととする」
「す、すうみついん!?」
ロンハは呆然と口を開けたままエクレシスを凝視する。
そしてアーシャは、青年司祭エクレシスの意外な正体に、反論することも忘れ、呆然とその顔を見上げることしかできずにいた。
最初のコメントを投稿しよう!