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第六話
視界が白いのは、朝の光が瞼を透かして映っているからだとアーシャは思った。
けれど違う。
瞬いてもなお見えるその白は、冷たい大理石の台の上にうつぶせているからだ。
顔を上げると、滑らかな石の上を拡がっていく赤い色が見える。
その先には月色の髪をした少年が倒れていた。
「…………!」
アーシャは叫んだ。
恐らく少年の名前だ。
自分でもよく聞き取れないから、何と言ったのかわからない。
後ろ手に縛られていたらしい手が引っ張られ、痛みに顔を上げた。
そして目の前には、血濡れた剣を振りかぶった重たげな甲冑姿の兵士が立っていて――。
悲鳴は、声にならなかった。
息を細く吐き出すばかりで、だけど恐怖に心臓が胸の奥で跳ねるように拍動し、その力に押されるようにアーシャは飛び起きた。
そして目の前に見えた月色の髪を見て、息を飲んだが、
「落ち着くんだアーシャ。私だ」
その声を聞いて、少年とは言えない顔を見て、ようやくそこにいたのがエクレシスだと認識する。エクレシスはアーシャの肩に触れ、二度、柔らかく叩く。
「目が覚めたか? 君は庭で倒れたんだ」
説明を聞き、アーシャは夢を見る前の記憶を思い出す。
エクレシスの案内で、祭司府から逃げようとしていたのだ。けれど変な塔を見ていたら昏倒してしまった。
アーシャは小さく身震いする。まだ、今見たものの余韻が体に残っていた。
どうして自分が前世を怖がっていたのか、今ならアーシャもわかる。殺された瞬間の恐怖が、前世の記憶として魂に焼き付いていたからだ。五歳だった自分が泣き叫んだのも無理はなかったと思う。
「大丈夫か? アーシャ」
エクレシスに優しく尋ねられて、アーシャは彼の顔をじっと見る。
同じ月色の髪。
エクレシスに、月色の髪をした少年の姿が重なって見えた気がした。
――まさか、とアーシャはハッとする。
同じ髪の色だから、印象が重なったのかもしれない。前世と全く同じ姿の人ばかりということもないだろう。
もしエクレシスがあの少年だったら? とアーシャは思ってしまったのだ。
それにエクレシスはここの祭司府があった場所で、牢獄に閉じ込められていたと言っていた。月色の髪の少年も塔の中に閉じ込められていたようだった。
縁がある人間と会いたいと言っていたエクレシスは、もしアーシャがそうだと名乗ったら、喜んでくれるだろうかと。
「うん、大丈夫。ありがとう。ちょっと前世のことを夢にみちゃったみたいで、少し恐かっただけだから」
そうか、とエクレシスがほっと息をついた。
「審判ならば、必要な過去だけを見ることができる。君に必要なのは、ロンハ殿との記憶だ。それだけ見るように誘導するから、安心してくれ」
エクレシスの言葉に、アーシャはうなずく。
「ううん心配しないで。大丈夫」
昨日までは恐くて不安で落ち着かなかったが、今、アーシャは妙に心が凪いでいた。
胸の中を占めているのは、自分の考えを確かめたいという気持ちだった。
アーシャは部屋に戻り、審判を受ける者のために用意された衣に着替えた。
運命の色は濃い闇の黒と黎明の紫と言われている。
黒い衣に紫の刺繍をほどこされた長衣は、審判を受ける者が必ず着なければならないものだ。貴族でも、貧しい者でも、皆神の業の前では同じく扱われると示すためである。
町娘らしい衣服から着替えたアーシャは、鏡で確認し、いつもと違う自分の姿に身が引き締まる思いがした。
これから自分は、今までの自分を乗り越えるんだ。
そう思いながら呼び出しを待つ。
ややあって扉がノックされた。少し時間には早すぎると思ったが、返事をして扉を開ける。
と、そこにいたのはロンハだった。
思わず後ろに飛び退いてしまったアーシャだったが、ロンハの固い表情と全く部屋の中に入ってこようとしない態度に首をかしげる。
「な、何か用でも?」
尋ねれば、うなずきを返してくる。
「話があるんだ。部屋の中では君が気詰まりだろう、庭へ行こう」
誘われたアーシャは、人目があるだろう庭なら、と思ってロンハについていくことにした。逃げ出した相手についていくのは少し恐かったが、今のロンハは最近人が変わったようにべたべたしだした彼とは、ちょっと様子が違ったからだ。
一緒に庭へ出ると、適度に祭司府の建物から離れ、通りがかる人からは見える場所でロンハが立ち止まる。
おかしい。ロンハがこんな配慮をしてくれるなんて。
だからアーシャは尋ねた。
「昨日、変な物でも食べたの?」
調子が悪いから大人しいのかとおもったのだ。が、ロンハは苦笑する。
「今までちょっと強引だったからな。けど、君が審判を受けるならそうまでする必要はないから……」
あれがちょっとなんだろうか、とアーシャは思い返す。
勝手に結婚宣言をした上、従者と共にアーシャを連れ去り、止めに軟禁されたのだ。
「ただ、審判を受ける前に君に教えておかなくちゃいけない事があるんだ」
「あたしに?」
うなずいたロンハは、ゆっくりとアーシャが理解できるように言った。
「エクレシス顧問官は、君を踏み台にするため審判を受けさせようとしてるかもしれない」
「踏み台って……」
地位も何もないアーシャでは、踏み台どころか地面がえぐれた状態と変わらないのではないか。そう思ったが、ロンハの説明を聞いて目を瞬く。
エクレシスは祭司王候補で、そうなるために必要な条件が、前世縁のあった者を見つけ祭司王に承認を得ることだというのだ。
「司祭など強い術を操れるようになった者は、自分の前世における縁者がすぐわかるらしい。だから君に出会った時エクレシス殿は君が前世の縁者だとわかって……審判を受けるように説得したんじゃないのか?」
本来なら、その能力があれば前世の縁者を見つけることは造作もないはずだ。
けれどアーシャは知っている。エクレシスは前世、ほとんど人と関わることができなかった。
だから偶然見つけたアーシャに、審判を受けさせるよう誘導した?
(でも……)
アーシャは違う、と思う。
もし祭司王になるためにアーシャが必要なら、必要な記憶だけを見るように誘導するなどとは言わないはずだ。
「それも、嘘だったら?」
しかしロンハに話せば、厳しい表情で返された。
確かに、頼んだからといって、言った通りにしてくれるかはわからない。でもそれでもいいとアーシャは思っていた。
「教えてくれてありがとう。だけど、あたし確かめなくちゃいけなくなったの」
「それは、彼と君が前世で縁があったかどうかを、か?」
ロンハは困惑するような表情に変わった。
「まさか君は……彼が好きなのか? 前世で会ったと感じて、そう思ってしまったのか?」
問われて、アーシャは曖昧に笑う。
あの人を気の毒だと思う。
そして自分が逃げていることで、会いたいと思う彼を悲しませてきたのかもしれないと思ったら。たまらない気持ちになった。
あの恐ろしい記憶に、彼を一人残したままにしたような感覚に陥るのだ。
けれど彼は来なくていいと言うのだ。
そんな優しいエクレシスだから、置き去りにしたくなかった。
もしかすると、これが恋なのかもしれないけれど……。
「もう、逃げるのはやめるの。あなたとのことも、ちゃんと知ってから判断する」
ロンハにはそう伝える。
するとロンハは静かにうなずいてくれた。
「君が決めたことなら、僕は見守るよ」
正午、アーシャは祭司府の第三神殿へ来ていた。
神殿は祭司府と同じ白石を積み上げて作られている。審判のための場所として使われているせいか、二十人も入れば一杯になるような広さしかないが、天井は塔のように高い位置にある。そして祭壇側の聖印を透かし彫りされた白い石壁は、色硝子がちりばめられ、外からの光を透かして美しい。
それを背にしてすえられた黒木に臙脂の布が張られた椅子。そこにアーシャは座らされる。
目の前には、審判の術を行なうエクレシスと、それを見届ける祭司府側の司祭、そしてグレブ司祭がいた。
いよいよ審判の時が来たのだ。
さすがに緊張するアーシャに、空気を読まずに声を掛けたのは、審判前なら会ってもいいといわれて一緒にきたロンハだ。
「これだけは覚えていてくれ。たとえ君が許さなくても、僕は君を思ってる。置いていってしまった君に、償いたいとそう思ってるんだ」
祈るようなまなざしに、アーシャの心が小さく揺れた。
一体彼と自分の縁とは、償いたいこととは何だろう。
その疑問をまず解き明かさなくてはならない、と唇をかみしめた。
ロンハが退出すると、神殿の中が静寂に満たされる。
衣擦れの音をたて、黒い祭司服姿のエクレシスがひざまずき、肘掛けにおかれたアーシャの手に自分の手を重ねた。
「では、審判を始める」
緊張で、アーシャの心臓が苦しいほど拍動する。けれどそれも数秒のことだった。
エクレシスが目を閉じた瞬間、重なる手から冷たい水が染み込むような感覚がして――アーシャの意識は暗転した。
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