余談だが、結局上司には怒られた

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余談だが、結局上司には怒られた

子どもの頃は、大人(おとな)になったらなんでも出来ると思っていた。けれど現実はいつだって、理想とは違い厳しいものなのだ。目の前に咲いている菖蒲(しょうぶ)を見つめながら、そんな事を考える。営業帰りに立ち寄ったのは、小さな池の小島(こじま)に、色とりどりの菖蒲が咲き乱れる公園。俺はその中にある休憩所のベンチで束の間の休息を取っていた。大学を出た後、就職して(はや)数年。毎日生活の為に上司に怒鳴られながら仕事をし、たまの休みには寝て過ごす。その繰り返しの日々。小さい頃はもっと、こうなりたいという目標があったような気がするのに、今俺が持っているのは努力目標という名の強制ノルマだけである。少しくらいずる休みをしても、ばちは当たるまい。そう思いながらため息をつく。しばらくぼぉっとしていると、俺以外にいなかった公園に、学ランを着た男子学生が入ってきた。(うつむ)いたまま、口を引きむすんで歩く様子は、明らかに何か思い悩んでいるようだ。その学生は急ぎ足で休憩所にやってきて、近くまで来た所で先客の存在に気が付いたらしい。僅かに戸惑った表情をみせた。この公園は休憩所から公園全体を見渡せる程の広さのせいか、所々(ところどころ)に菖蒲を観賞する為のベンチはあるものの、休憩所にはベンチが一つだけしかない。そこに見知らぬサラリーマンが座っていたら、どうしようと思うのは当たり前だ。俺は崩していた姿勢を少し(ただ)して、ベンチの(はし)へと移動した。幸い置いてあるベンチは通常のものより大きかったから、二人くらいなら(あいだ)を空けて座ることが出来る。学生も此処(ここ)で引き返すのはきまずかったのか、ゆっくりとした動きでベンチの反対側の端へと座った。そうしてサラリーマンと学生、男二人が只々(ただただ)菖蒲を眺めているという奇妙な状況が出来上がった。しかし予想外にも、余り居心地の悪さは感じない。俺がもっとフレンドリーな性格なら、隣に座っている悩める学生に何かしら声をかけただろうが、残念ながら見知らぬ学生に自然に声をかける方法など思い浮かばない。でも、それでいいのかも知れない。流れていく時間は静かで、何かを考えるにはふさわしい場所だから。人には誰かと何かを共有する事が必要であると同時に、一人で考える時間もきっと必要だ。さて、そろそろ帰らないとまた上司のカミナリが落ちるな。俺は立ち上がり、近くの自動販売機でコーヒーとココアを買った。そして帰り際、学生にココアを手渡す。 「もし、良かったら」 そんな言葉と共に差し出したココアを、学生は公園に来た時と同じように少し戸惑ったように見つめながらも、 「ありがとうございます」 そう丁寧にお礼を言って受け取った。公園の入口へ向かいながら、最近は防犯教育がしっかりされてるから不審者扱いされたかなと思い、後ろを振り向く。俺の心配を他所(よそ)に、学生はプルタブを開けてココアを飲んでいた。喉の動きから、結構な勢いでココアを飲んでいるのが分かる。そして飲み終えた後に大きなため息をつき、また前を向く。こちらの気のせいかも知れないが先程よりも、その目には若者特有の力強さが戻っている気がした。俺は何となく気分が良くなり、そのまま公園を後にする。会社に戻る(みち)すがら、さっきの見知らぬ学生に心の中でエールを送り続けた。 「悩めよ少年。現実は結構手強いぞ」
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