ガラスの癌細胞

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   十年後、自分は生きているのだろうか。素朴にそう思ったのは、今から十年前だった。当時、自分は十四歳。別段、患っているわけではない。強いて言うなら、人間としての疾患を僕は患っているというぐらい。  それに気が付いたのが、十四歳というわけだ。それは、思春期特有の思い違いでもなくて、動かしようのないで真実であった。  僕はあるよく晴れた日曜に、その兆しを感じ取っていた。友達が、何時ものように遊びに誘いに家に来た。僕はそれを断った。友達は少し怪訝そうな顔をして去った。  その時は、なんとも思っていなかった。しかしそれは、やはり前兆というべき事なのだ。それから次第に学校に行くことで、僕は疲れるようになり、友達と遊ぶことすらも、億劫に感じるようになる。そのうち、友達も僕から離れていった。  けれどもそれで、僕はのびのびと、晴れやかな気持ちになったのだ。その時、何かが自分の胸の内側に、起こりつつあることを理解した。そして僕はなんとなく、十年後、自分は生きているのか疑問に思う。  それは動物的な直感で、その時、正確に自分の身に起こりつつあることを根拠もなしに理解していたということになるだろう。  正常と異常の判断が、普通とそれ以外とでなされるならば、紛れもなく僕は異常だし、健康と病人と境界が、日常に差し支えるか否かであれば、僕はやっぱり病人だろう。  心の中の癌細胞。  あの日存在に気が付いたそれは、ふつふつと増殖を繰り返す。僕を異常に変えてゆく。その萌芽。うだるような、夏の日だった。蝉の声が夕立のように降り注ぎ、陽炎が遠くで揺れていた。  その日、僕は自分の行く末を、静かに感じ取っていた。  今朝、記憶の中でその日の僕と目があった。  あれから、癌細胞との付き合いを僕はだいぶ学んできた。文学や映画や音楽や、女の子、お酒、旅行等。治りはしないが、進行は鈍る。だから僕は彼に言う。 「大丈夫、まだ、生きている」   記憶の彼は、実に微妙な顔をする。多分、僕があんまり楽しくなさそうな顔をしてたからだろう。でも、自分に嘘も付きたくないし、騙すのも何か違う気がした。  さて、僕は十年後生きているのだろうか。  僕は不意に苦笑う。  よくよく見知った誰さんと、目があったような気がしたからだ。  年を食った彼は言う。 「大丈夫、まだ、生きている」  その疲れた顔に、祝福を。よく晴れた夏の日曜日、僕はビールのプルタブをむしる。
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