共に歌う祈りの庭

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共に歌う祈りの庭

 今日も夜が明け、陽の光がこの街を照らしていた。毎週日曜日に行われる日曜礼拝。この修道院管轄の教会では、修道士たちだけではなく、街の人達とも同じ聖堂で礼拝を行う。薔薇窓が填め込まれ、そこを通る光がまるで宝石のようで、厳粛な雰囲気の聖堂に華を添えている。修道士たちと街の人達のいる場所の間には、真鍮で飾りの模様が施された、木製の高い障壁を設けてはあるけれども、この場所で共に、司祭の導きの元に神様への祈りをあげている。  礼拝に来た敬虔な街の人達と、私たち修道士の間を隔てている障壁のこちら側にいる修道院合唱団が、椅子に座った修道士が弾くパイプオルガンの演奏に合わせて聖歌を歌う。重々しく、荘厳に響き渡るパイプオルガンの音色と、それぞれに差はあれども低く落ち着いた合唱団の声が、複雑に梁が渡され区切られている構造の、教会の細かい隅々にまで行き渡る。いまこの時は、街の人々にとって、聖堂が安らぎの場所となっているのだろう。そうであると、私は思いたい。  そういえば。と思い出す。このところ、この教会で合唱団によって歌われている聖歌が、日曜礼拝にやってくる街の人々の間で評判になっていると、街の人々と直接話すことがある神父様から伝え聞いた。それは、日頃から酒場などで繰り広げられる牧歌的な演奏会で歌というものを聞き慣れている、音楽好きの人が言っていたそうなのだけれども、その人曰く、ある時期をきっかけに、心の底から身を震わせるほど歌の上手い歌い手が、修道院合唱団に入ったように感じるとのことだった。いままでとはまるで違う、ただただ聖なるものである聖歌の中に、妙に艶やかさのある声が混じっているのだという。  その人の言っていること、感じていることは正しいと私は思っている。街の人が詳しく知ることはきっとないのだろうけれども、ほんの数ヶ月前に、この修道院は新しい仲間を迎えていた。新しく修道士見習いとして入ってきた彼は、大柄な身体で体力もあるので、はじめはハーブ畑の仕事や葡萄畑の世話や収穫、ワインの鋳造など、体力の必要な役割……特に葡萄畑の世話は、葡萄の木が高く伸びるため、手入れと収穫のためには長身である方が都合がいい……に回そうかという話が出たのだけれども、司教様が、その修道士見習いになるために彼が持参した手紙に書かれた話で歌が得意だと知ったそうで、試しに修道院合唱団を含めた何人かの修道士立ち会いのもと、歌を歌わせてみたのだ。その歌は普段礼拝で聴くものとはだいぶ違ったけれども、その朗々とよく響く低い声と、確実に、そして的確に音程を抑えた旋律。それは音楽に疎く、はじめてその旋律を聴く私でもはっきりと上手いとわかるほどもので、元々この修道院の合唱団に所属していた誰よりも巧みに歌声を使いこなしているように感じた。これであればと、誰も文句を言うこともなく、満場一致で彼を歓迎し、そして合唱団に入ることになったのだ。  けれども、その彼にはひとつ、ここに来てからずっと抱えている問題がある。それをなんとか解決しないと、今後この修道院で暮らしていくうえで障害になるのだけれども……  その事に思いを馳せると、彼の世話係であり相談役を任されている私もつい、気持ちが沈みがちになってしまうのだ。  いつも通りに日曜礼拝が終わり、少しの休憩時間を挟んでから昼食時になる。昼時を告げる鐘の音が響きわたり、修道士たちがこぞって食堂に揃う中、ひとりの修道士見習いが、食堂内を隅々まで見渡しても、どこにも見当たらなかった。  ああ、またか。と私は思う。そうして心に抱くのは、嫌悪感でも苛立ちでもなく、ただただ覆い被さるような不安だ。席に着いている他の修道士たちも、そわそわとほかの修道士と視線を送り合って、その修道士見習がいないことを心配しているようだった。 「少々席を外しますね。私が様子を見て参ります」  そう言って私は席を立ち、食堂の奥にある厨房へと向かう。そこで料理の乗ったトレーを受け取り、食事がはじまる前に、修道士見習いの分の料理を持って食堂を出た。  そのまま私は、彼の部屋へと向かう。こういったこともいままでに一度や二度ではないので、私だけでなくほかの修道士たちも慣れてきているだろう。  窓から陽が差していても薄暗い石造りの修道院の廊下を、なるべく硬い足音が立たないようにそっと歩き、何度も訪れているために足を運ぶのも慣れた部屋の前に立つ。  きちんと手入れされて飴色になっている木のドアをノックして、少し大きな声で、けれども威圧的にならないように気をつけて、中に声を掛ける。 「ウィスタリア、ここにいるのですか」  すると中から、かろうじて聞こえる大きさの、不安そうな声で返事が返ってくる。思った通り、彼はひとりで部屋に籠もっていたようだ。 「お昼ごはんの時間ですよ。礼拝の時にあれだけ頑張って歌っていたのです、あなたもお腹が空いたでしょう。 あなたの分の食事を持ってきたので、ここを開けてくれませんか?」  ドア越しに、私が続けてそう言うと、中から少し小さく足音が聞こえてきて、それから静かにドアがそっと開いた。薄く開いたドアの隙間から覗いているのは、私よりもずいぶんと背が高く、波打つ髪がうつくしい容貌を縁取っている、新しく修道院合唱団に入ったあの修道士見習いだ。不安そうな、怯えたような表情で、心なしか身をかがめてこちらを見ているその彼、ウィスタリアは、私が食事を持ってそこにいるのを確認すると、もう少し大きめにドアを開けて、私が持っていた料理を乗せたトレーを受け取る。 「ルカ、いつもありがとう」  先程の礼拝の時に響かせていた大きく朗々とした歌声からは想像出来ない弱々しい声で、申し訳ないと思っているのか、いささか沈んだ様子を見せて私に礼を言うウィスタリアに、私はなるべく落ち着いた声色になるように気遣いながら、また訊ねる。 「また、みんながこわくなってしまったのですか?」  するとウィスタリアは、明らかに表情を暗くして、瞼を伏せて頷いた。  そう。これがウィスタリアの抱えている問題だ。どういうわけだかウィスタリアは、修道院で暮らす我々修道士のことがこわいらしいのだ。どこに原因があるのかはわからないけれども、少なくとも……これはあくまでも私個人の考えではあるけれども……私たち、この修道院で暮らす修道士たちが、ウィスタリアになにか危害を加えたわけではない。と私は思っている。何故なら、ウィスタリアがこの修道院にやって来たその日から、どうしたわけだか、彼は私たちに怯えている様子を見せているからだ。  この修道院で暮らす修道士たちや司祭様、神父様、聖職者たちは、皆をとりまとめている司教様の、決して声を荒げることもなく、誰かを責めることも断罪することもない、おっとりとした懐の深さもあってか、不愉快なことがあったり罪の現場に立ち会ってしまっても、怒りの感情を見せる修道士や司祭を見たことがないほどに穏やかだ。私たちのことを怖がって、ウィスタリアが朝の勤めや夕べの祈りの時間に部屋にひとりで……場合によっては私と一緒に……籠もってしまって聖堂に来られないことがあっても、こうやって皆と一緒に食事ができずに、今回のように誰かが部屋に食事を運んできて部屋で食事をすることがあっても、誰もウィスタリアのことを責めたりはしないのだ。  こうしていると、ウィスタリアは私たちまわりの修道士の善意に甘えているだけのように見えるかも知れない。けれども、実際にウィスタリアがそれに甘えてばかりかと言われると、そうではないと私は思う。すこしずつではあるけれども……私が側にいるという条件のもとではあるけれども……私たち修道士が揃う聖堂でのさまざまな礼拝に出ることも増えてきたし、一緒に食堂で食事をすることもある。もちろん、今日の朝のように、日曜礼拝の時の修道院合唱団としての務めも果たしている。いままでに様子を見てきた感じでは、日曜礼拝は比較的出席する事が多いように感じるけれども。  きっとウィスタリアには、ここに来る前にどこかで負ってしまった心の傷を癒やすための、ひとりでいる時間が必要なのだろう。  私の手から食事を受け取ったウィスタリアに、私は微笑みを向けてこう言う。 「食べ終わった後の食器は、いつも通り自分で下げるのですよ」 「うん、わかった」  私のその言葉に、ウィスタリアは硬い表情ながらにも返事をして素直に頷く。料理とそれの乗ったトレーを持ったウィスタリアが部屋のドアを閉めたのを確認してから、私はまた薄暗い石造りの廊下を歩いて、ほかの修道士たちが待つ食堂へと戻っていった。  食堂に戻ると、他の修道士がまだだれも料理に手を着けずに、心配そうにしながら私のことを待っていた。料理が冷めてしまう前に、料理を届けにいった私が戻ってくるのを待たずに食べていて欲しいと言わずに出て行ってしまったのが、なんとな気恥ずかしいような申し訳ないような、そんな心地だ。  私が熱くなった頬を押さえながらそそくさと自分に割り当てられた席に着くと、向かいに座っている修道院合唱団のうちのひとりが、小さめだけれどもきちんと聞き取れる、通る声で私に話しかけてきた。 「ルカ、ウィスタリアの様子はどうでしたか? ちゃんとごはんを食べられそうでしたか?」  彼もウィスタリアのことを余程心配しているのだろう。眉尻を下げて、不安そうにそう問いかけてくる彼に、私は簡潔に、こう答えるしかない。 「あいかわらずの様子です」  すると、他の修道士たちも心配そうに目配せをする。たまに、調子が良いときのウィスタリアが私たちと一緒に食堂で食事をする場合などは、なんとなく彼も私たちに馴染んでくれているような気がするようで、晴れやかで明るい雰囲気になるので、それが感じられないいまこの時に、若干の寂しさと物足りなさ、中には、その本人は悪くもないのに不甲斐なさを感じている者もいるのだろう。  私に話しかけてきた修道院合唱団員の彼が、心配そうに表情を暗くして言葉を続ける。 「ああ、ウィスタリアはほんとうに、外の世界で何があったのでしょう。 俗世でそんなに、ほかの人に、こんなに怯えてしまうほどこわい目に遭ったのでしょうか…… どうしたら、彼の心をほどくことができるのでしょうか……」  これはきっと、この場にいる他の皆もそれぞれに思っていることだろう。ここで暮らす仲間達、そう、私たちの誰かに話してくれれば相談に乗ることも、彼の悩みの解決の方法を探ることもできるけれども、ウィスタリアは外の世界で遭ったであろう、私たちに恐怖心を抱く理由になったその出来事に関して、一切その口から語ることはなかった。  私が、泣きそうな表情でウィスタリアを心配している、目の前の彼に言う。 「トマス、同じ修道院合唱団に所属しているあなたの心配もわかります。ウィスタリアに関しては、私も同じ気持ちです。 けれども、そうやって心配ばかりして食事をしないと、なににもなりませんし、またほかの人や、もしかしたらウィスタリアに心配をかけてしまいますよ。 とりあえず今は、目の前の食事をいただききましょう」 「あ、ああ、そうですね……ルカにも、ご心配おかけして申し訳ないです」  ようやく、スプーンを持って食事に手を着けはじめた修道院合唱団員のトマスの様子を見て、私は思う。ほかの修道士たちがこんなにも心配しているのだから。というのは理由にしないにしても……いや、正確には、それを理由にはしたくない……ウィスタリアには、早かれ遅かれ私たち修道士や、我々が暮らすこの修道院に馴染んでもらわないと困る。そうでもしないと、この修道院で日々静かに繰り返される、閉ざされた小さな箱庭での共同生活を送ることは難しいのだ。  たまに、いままさにひとりで部屋に籠もってしまっているウィスタリアへの心配の声が聞こえる、それでも静かといえる食堂の中で、私はゆっくりと一皿に盛られた料理を口へと運ぶ。質素で、量が多いとは言えないこの料理。たまに物足りなさを感じることもある料理だからこそ逆に、無心になってゆっくりと少しずつ、時間をかけて食べる。そうすれば、量が少なくともなんとなくお腹と心が満たされた気分になるからだ。  口の中のものをなんども噛みしめながら、ふと目の前にいるトマスの方に目をやると、彼は明らかに気落ちした様子で、心細そうにぽそぽそと料理をすこしずつ口に運んでいる。やはりトマスも余程、いまひとりで部屋にいて食事をしているだろうウィスタリアのことを心配しているのだなと思ったけれども、めずらしくここまで気落ちしてしまっている彼に、どんな言葉をかければ良いのかが私にはわからない。もしかしたら、ほかの修道院合唱団の仲間なら、それはわかるのかもしれないけれども、私はそうではないのだ。  根拠の無い慰めなどするだけ無駄だろうし、そんなものを求めてはいないだろうと、戸惑いながら何度も彼に視線を送っていると、トマスが私を窺い見ながらこう言った。 「あの、よかったら食事のあと、ウィスタリアの様子をお部屋まで見に行きませんか?」  心細そうに言われたその言葉を聞いて、私は確認するようにこう返す。 「それは、私も一緒に。ですか?」  するとトマスは、持っていたスプーンをお皿の上に置き、じっと私のことを見て、それから少し寂しそうに微笑んでこう言った。 「そうです。ウィスタリアは、ルカに懐いているようだから。 あなたと一緒に行くのであれば、私がいても少しは安心するかなと思って。 私のようななりだと、私たちのことを怖がっているウィスタリアが、もっと怯えてしまうでしょう?」 「なるほど……言われてみれば、そうですね」  トマスは、この修道院で暮らす修道士の中でも、比較的がっちりとしていて体格がいい。ウィスタリアほど背が高いわけではないけれども、合唱団に入る前は葡萄畑の世話を任されていたようなトマスが、我々に怯えてしまっているウィスタリアの前にひとりで行ったら、彼を余計に怯えさせてしまうのではないかというその懸念は、いくら察しの悪い私でもわかるというものだ。 「わかりました、構いませんよ。 食べ終わったら、私と一緒に、ウィスタリアの部屋まで行きましょう」  そうやって私が了承の言葉を伝えると、トマスはとりあえず、少し安心したようで表情が少し柔らかくなった。その姿はは、こわがるようなものではないと私は思うのだけれども、ウィスタリアにとってどうかはわからない。  トマスが再びスプーンを持って、皿の中の料理を掬いながら、ぽつりと言う。 「もしなにか不安があるなら、ウィスタリアから話を聞きたいんです」 「なるほど」  そうは言っても、ウィスタリアは素直に、彼が抱えている不安の原因を私たちに話してくれるだろうか。ウィスタリアはいままで一切その話を、神父様にも、司教様にすら、打ち明けていない様に見えるからだ。  そう思いながら静かに食事を続けていると、食堂のドアが開く音と足音が聞こえた。なにかと思ってそちらの方に目をやって見てみると、空になった食器を持ったウィスタリアがいた。食堂にいる修道士たちの視線が彼に集まる。けれども責めるような視線は、ひとつとしてなかった。  彼は俯き気味にして、この場にいる誰とも、誰にも視線を合わせないようにしながら、せわしなく早足で食器を食堂の奥ににある厨房へと運んでいく。私がさきほど言ったように食器を下げにここへ来ただけのようだけれども、まさかまだ皆がここで食事をしているとは思っていなかったのだろう。ウィスタリアの動きにぎこちなさが見える。  一切口を開くことなく、我々から視線を外して俯いたまま食器を下げ、あきらかに早足で皆がいる食堂を去って行くウィスタリアを見て、ほんとうに、彼はこの場にいる我々のことがこわいのだと、私は再認識した。  俯いていたとは言え、座っている我々には背の高いウィスタリアの表情を伺うことは可能だった。そして、ふとした拍子にちらりと見えたウィスタリアの固く怯えた表情。きっとそれに気づいた修道士も少なくないだろう。現に、ウィスタリアが去ったあとの食堂の入り口をまだ見つめているトマスは、明らかに動揺したような、不安そうな表情をしている。そして、同じようにそう言った様子を見せている修道士は、周りを見渡すと、ほかに何人もいるのだ。  ここまで周りに影響が出るほど私たちをこわがるだなんて、一体どう言ったものなのかは全くわからないけれども、ウィスタリアの抱えている悩みは、私の想像が及ばないほどに、相当根が深そうだった。
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