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しばらくしてリビングからピアノの音が聞こえてきて、それと同時に誰かが階段を上がる音が聞こえてきた。
ピアノの音は静留のものだから、母が上がってきているのだろう。
「東弥っ!!」
「なに!?」
ノックも無しに部屋のドアが開き、突然名前を呼ばれた東弥は驚いてベッドから落ちそうになった。
ただでさえ2人が話している間不安でたまらなかったのに、追い討ちをかけるように突然ドラマのクライマックス顔負けの剣幕で名前を呼ばれたのだから、たまったものではない。
「静留、何て?」
一旦深呼吸をしてから冷静に問い掛ければ、母は東弥のベッドに腰掛け、“いい子ね”、と優しく微笑んだ。
「まずはリボンのお礼を言われた。それから、…子どもが産めないことや生活能力に欠けていることを謝られたわ。それでもあなたが一緒にいたいと望んでくれるなら、自分はあなたのそばにいたいと。
話すのは下手だったわね。でも、伝えたい思いがはっきりしてた。何より、彼の主語は全部あなただったの。あなたが幸せになってほしい。自分と一緒にいたら、あなたが子どもを持てない。
いい子だわ。そして何より可愛い。思わずありがとうって抱きしめちゃった。そうしたらとても可愛い笑顔を浮かべたの。」
__静留がそんなことを…。
彼の言葉でその情報を伝えるのは、どれほど大変だっただろう。普段他人と話すことが苦手な彼が母にそのことを話すために、どれほどの勇気が要っただろう。
それを思ったら泣きそうになった。
今すぐ彼に会って抱きしめたい。
しかし、一つ引っかかることがある。
「…ちょっと待って、静留のこと抱きしめたの?それで静留が笑った?」
「何よ嫉妬?」
何やら面白いものを見たという表情を母が浮かべたが、今の東弥にそれを気にする余裕は残念ながらない。
「ああそうだよ嫉妬だよ!静留のことが大好きだし静留は可愛いから誰にも触らせたくない。」
「束縛は嫌われるわよ。」
「…それは嫌だな…。とりあえず話は終わったようだから俺も静留のところに行っていいよね?」
「ええ、まあ…。」
母の呆れ口調など全く気にせず東弥はそのまま階段を降りてリビングまで行き、ピアノを弾いている静留の身体を我慢できず背中から抱きしめた。
「…??」
振り返った彼は口をぽかんと開け、不思議そうに首を傾げた。
「静留、愛してる。」
額に口づけを落とせば、白い頬が桜色に染まる。
ごほん、と後ろから咳払いが聞こえた。
「ドラマもびっくりのワンシーンね。」
「母さんだって静留のこと抱きしめたんでしょう?」
「そんなこと言うならずっと膝にでも乗せてなさいよ。」
「うん、そうする。」
「…そう…。」
言質を取ったので、静留が何曲か弾き終えた後は母の言葉通り彼を膝の上に乗せてソファーに座る。
彼がピアノを弾いている間に東弥が並べておいたお寿司を静留はきらきらとした目で見つめた。
「静留、どれ食べたい?」
「えっと、きいろのやつ!」
「卵かな。はい、口を開けて。」
卵の寿司を半分に割って口に入れてやると、静留は幸せそうにもぐもぐと頬を膨らませる。
「静留君、これも甘くて美味しいわよ。」
様子を見ていた母が唐突に高級なチョコレートを取り出し、静留の口の前に持って行った。
膝の上で静留が雛鳥のように口を開くのを見て東弥はひどく慌てる。
「ちょっと母さん、それは俺の仕事だから!」
「いいじゃない。可愛いものを愛したい想いは全世界共通でしょう?」
「…。」
母の言葉には残念ながら否定できる要素がひとつもなかった。
女性は男性と比べて脳梁が狭く口喧嘩に強いと言うが、母と話しているとそれを痛いほどに感じる。
結局帰省で東弥の母と静留の親交は大いに深くなり、東弥がシャワーを浴びて出てくると母が静留の髪を綺麗に結んでいたり、翌朝起きると母が好きな曲を静留がピアノで弾いていたりするほどだった。
普段の彼からするとこんなにもすぐに誰かと打ち解けるなど考えられない。
しかし、無理をしていたのかもしれないと思い帰りの飛行機で“来年は帰省しなくていい”、と静留に言った時、彼が“もうおかあさんに会えないのか”、と悲しそうに瞳を潤ませたため、嫉妬を覚えつつも東弥は母が日本にいるときはちゃんと帰ろうということを決意したのだった。
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