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廃屋の子猫
ほぼ全ての子どもは、物心つく頃に親から呪いをかけられる。
「ちゃんとしなさい」
「言うことを聞きなさい」
この呪いは、子どもの自由な発想と行動を妨げる。
しかしこの呪いがあるからこそ、子どもは危険から守られる。
幼い頃は文句を言ったり窮屈に感じるばかりだった子どもも、大人になっていくにつれ自分が守られていたことに気づく。この時に、呪いは思い出話に花を咲かせるための種へと、その性質を反転させる。
ただ、呪いが強すぎるとこの反転は起きない。
「ちゃんとできない子はうちの子じゃない」
「お前なんか橋の下で拾ってきたんだ。家に置いてもらえるだけありがたいと思え」
「言うことを聞けない悪い子には、もうおやつもごはんもあげない」
「おもちゃも買ってあげないし、今あるものは全部捨ててやる」
親が言い放つ心ない言葉たちは、強すぎる呪いとなって子どもの自由な発想と行動を奪う。妨げるだけでは飽き足らず、奪ってしまうのだ。
この被害を受けた子どもはどうなるのか。
親から抑圧されるだけでなく自責の念にも追い立てられ、聞き分けがいいだけの自立できない人間ができあがる。
こうなると、家族や悪意ある他人に人生を搾取される未来が待っている。まさに呪いの本領発揮といえるだろう。
宣行(のぶゆき)もまた、そんな呪いに囚われた者のひとりだった。
(本当に、本当にクソだ)
彼は顔にあらわれるいら立ちを隠そうともせず、ポストに封筒を入れようとしている。
だがポストの口は狭く、自転車に乗ったままではうまく入らない。
「んああっ」
いら立ちを声に出した後で、宣行は仕方なさそうに自転車を降りる。スタンドを立てて自転車をその場に固定してから、ポストの正面に立った。
「……」
息を殺すほど静かに、封筒を差し出す。
それがポストの狭い口に飲み込まれた直後、いら立ちは明瞭な言葉となって彼の心を駆け巡った。
(なんで俺が、ポストにまで気をつかわなきゃなんないんだ!)
家から歩ける距離にあれば、わざわざ自転車に乗ってくる必要はない。
すぐ出してすぐ帰りたいのに、わざわざ降りなければ封筒を入れることもできない。
「く…!」
いらぬ手間をかけさせたポストに、宣行は怒りをぶつけようとする。
しかし、彼が実際に手を上げることはなかった。
(…ポストは、関係ない…よな)
ただそこに立ち、郵便物を待つだけのポストに罪はない。
宣行は、一度大きくため息をつくとスタンドを上げて自転車に乗った。
(イライラするよ。イライラするけど…関係ないヤツにぶつけるのは、やっぱり違う)
ペダルに力をかけて踏むと、周囲の景色が流れ始める。
その速度がだんだんと上がり始めた。
(違う、けど)
宣行は歯を食いしばる。
全力でこぐと、ギアのない自転車がやかましく音を立て始めた。
(だったら…! 俺のイライラはどうすりゃいいんだよ!)
彼は国道に出る。自宅に帰ろうとは思わなかった。
歩道そばにある自転車専用レーンに入り、怒りのままに疾走する。
(俺の人生、何もかも無駄だった! 何もかも…何もかもだ!)
宣行の怒りは、先ほどポストに出した封筒とその中身に由来する。
封筒は彼が用意したものではなく、実家の住所を管轄する役所から送られてきた返信用のものだった。
中には一枚の紙が入っており、そこには役所からの質問がいくつか並んでいる。
宣行は汗まみれで走りながら質問の内容を思い返し、それに心で返答した。
”あなたの収入はどのくらいですか?”
(俺ひとりが生きてくので精一杯だよ!)
”資産などはお持ちですか?”
(ゲーム機もギターも親に売られたよ!)
”負債はありますか?”
(俺も親もみんな負債だよ! 生きてるだけで金がかかる!)
さすがに書き方はもう少しよそいきの仕様に変えていたが、意味としてはほぼ同じ内容を紙に書いた。
”経済的な支援が無理なら…”
彼は最後の質問を思い返す。
”せめて精神的に支援することはできませんか?”
これが、宣行の怒りを爆発させた。
(できるわけねえだろ、バカ野郎がよぉおおおおおッ!)
「あああああっ!」
怒声が口から漏れた。心の中に抑え込むことはできなかった。
彼が書き提出した紙とは、扶養の届け出をするための書類だった。親が生活保護を申請したことで、息子である彼に役所が支援できないかと尋ねてきたのだ。
(俺の時間をあんだけ好き勝手に使っといて、生活保護だと? ふざけんじゃねえ!)
幼い頃の記憶が、宣行の脳裏に蘇る。
小さな彼は、仏壇の前で両親とともに経文を一生懸命読み、祈りを捧げていた。
経文を読む時には正座でなくてはならず、足がいつもしびれるので宣行はやりたくなかった。
しかし終わると親が褒めてくれるので、それを糧にがんばり続けた。
「よくがんばったなあ、宣行。これでまた幸せに一歩近づいたぞ」
「ほんと、宣行は真面目に言うこと聞いてえらいわ。将来は幹部さんになって、みんなを導いてね」
両親は、そこそこ熱心に宗教を信じていた。
そんなふたりの間に生まれた彼は、物心つく前からその宗教に触れ、疑問を持つことなく教えを広める活動にも参加してきた。
しかし、全てを救うという教えを守っているにも関わらず、経済状況は一向に良くならない。
ある日、宣行が学校から帰ってきてみると、ゲーム機とエレキギターがなくなっていた。
(あれ…?)
どこを探しても見つからない。
親に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「あれね、悪いんだけど質に入れちゃった。その代わり今夜はとんかつだから! 好きなだけ食べていいわよ!」
(…は…?)
宣行には意味がわからなかった。
夕食の時、楽しげにとんかつを食べて自分にも勧めてくる親たちが、どういう神経をしているかもわからなかった。
箸すら持たない息子に、両親は笑顔で釈明する。
「あれな、金返せば戻ってくるから。売ったわけじゃないんだぞ」
「そうよ大丈夫。ちゃんとお金を返せばいいんだから」
(そういうことじゃない)
この日、彼は夕食をとらなかった。
自分が大切にしていたものを無断で持ち出し金に換えた両親と、食事をとる気になどならなかった。
しばらくすると、ゲーム機とエレキギターが戻ってきた。どうやら両親はきちんと質屋に金を返したようだ。
しかし宣行が安心することはない。彼は学校から帰る度に、自分のものがなくなっていないか心配するようになった。
皮肉にも、その心配は現実になる。一度起きたことは二度起き、二度起きたことは三度起きた。
そしてついに、戻らない日がやってくる。
四度目に質入れされた時、両親は期限までに金を払うことができず質草を流してしまったのだ。
宣行がそのことを指摘すると、ふたりは結託して彼を怒鳴った。
「しょうがないだろう! 誰だって、金が用意できない時くらいある!」
「あんたね、一体誰に食べさせてもらってると思ってんの!? そんなにこの家が嫌なら、今すぐ出ていきなさい!」
教えを守っていれば幸せになれる。
そう言い聞かされてきた彼は、
そう言い聞かせてきた両親に脅迫された。
(教えって…一体何なんだ?)
宣行と家族が信仰する宗教は、何百年もの歴史があった。それは信じた人々が救われてきた歴史でもあるのだと、繰り返し教えられてきた。
だというのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか?
(マジで、何なんだ?)
彼にはわからない。
混乱する心に、友人たちの優しい言葉が突き刺さる。
「お前のギター、また聴きたいな。文化祭の時、すっげーよかったから」
「バンドってまだやってんの? ライブする時は教えてくれよ!」
両親が楽器を質に入れたなど、言えるわけがない。
「ま、また…そのうちな」
宣行は、どうにか暗い表情を返さないようにするので精一杯だった。
親の言いつけを守り、
教えを守り、
学校の規則を守り。
他人に課されたものを、彼はできるだけ全て守ってきた。
だがその果てに残っていたのは、自立できない弱い心だった。
両親に課された規律から外れることが、とても恐ろしい。ふたりのもとを去ることも、アルバイトをして自分だけの財産を作り出すこともできない。
さらに質入れの一件以降、宣行の両親はこづかいを彼に渡す時、必ずといっていいほどこんなことを言うようになった。
「ほら、今月のこづかいだ。ありがたく思え」
「ほんとはあげる必要なんかないんだけどねえ? 親の言うことも聞けない、頭の悪い子にさあ」
「こいつは世間ってものがわかってないから仕方ない。ほらどうした? ほしいなら『ください』って頭下げながら両手を出せ!」
この家で、金を持っているのは両親だけである。
宣行がそれを手に入れるには、言うことを聞くしかない。
「……く、ください…」
彼は親に向かって頭を下げ、うやうやしく両手を差し出した。
屈辱的だった。しかしどうしようもなかった。このやりとりが繰り返されることで、宣行は次第に自分の意見というものを口にできなくなっていった。
(なんで…? なんでこんなに毎日苦しいんだ? 俺はちゃんとしてるだけなのに……)
彼の中で疑問ばかりが膨らむ。親から与えられる抑圧と心にある圧迫感を、どうすればなくすことができるのかわからない。
(なぜですか、神さま…仏さま……)
祈ったところで答えは出ない。宣行は悶々とした日々を過ごすばかりだった。
それからしばらくたったある日、宣行は家を飛び出した。
高校を卒業する直前で、授業が減っている時期だった。
当時の彼は恋をしていた。片思いだった。相手は近所に住むひとつ年上の女子大生で、幼い頃に何度も遊んでもらっていた。宣行が中学生になったあたりからだんだんと疎遠になり、今ではたまに話す程度の付き合いになってしまっていた。
(おねえちゃん…)
彼は彼女のことをそう呼んでいた。おそらくずっと前から好きだった。疎遠になってしまったのは、好きという思いを自分の中で処理しきれなくなったせいだと後から気づいた。
宣行は自身の恋心に気づいてから毎日、彼女のために祈りを捧げるようになる。ただ、この祈りは自らの想いを成就させるためのものではなかった。
(おねえちゃんが笑顔でいてくれれば、それでいい。俺は苦しくてもいいから、真面目に生きていくから、親にも教えにも逆らわないから…どうかおねえちゃんを幸せにしてください…お願いします……!)
自分が彼女の隣に立つことはないと、彼にはわかっていた。
であるならせめて幸せになってほしい。たとえそれが身勝手な願いであっても、何百年という長きに渡って人々を救ってきた教えなら叶うはず。彼はそう信じて、極めて純粋な祈りを積み重ねていった。
しかしそれはどこにも届かない。
夜行バスが高速道路から落下し、それに乗っていた想い人は帰らぬ人となった。
(なんだ…なんだこれ……!)
宣行は、テレビから流れる事故の映像を見ながら震えるばかりだった。
ニュースによると、バスは落下した後で爆発し激しく燃え上がったらしい。
特に黒く焦げた車両後部がアップで映された時、出発前に彼女と交わした会話が彼の中に蘇った。
”お父さんとお母さんには友だちと旅行に行くって言ったんだけど、実は…イベントに行くんだよね”
”イベント…って何の?”
”『剣刃乱舞』ってゲーム知ってる? 男の子がいっぱい出るヤツなんだけど、それのイベントなの。うちの親、ゲームとかあんまし好きじゃないから秘密にしとかなきゃいけなくて”
”あ、そうだったんだ…大変だなあ”
”ノブくんだから話したんだからね? うちの親に言わないでよ”
”言うわけないよ。おねえちゃんが困るようなこと、俺は絶対にしない”
”ふふっ、ありがと。じゃあ特別に、ノブくんにはおみやげ買ってくるから待ってて”
彼女は輝くような笑顔を、宣行に向けてくれた。
その笑顔を。
(なんで……)
宣行が信じさせられてきた神や仏は、
すりつぶし、
燃やし、
人ではない炭の塊に変えたのだ。
(なんで…!?)
何がいけなかったのか?
言いつけを守り、教えを守り、真面目に生きてきた。
しかし祈りは叶わなかった。
(大金持ちにしろとかそういうんじゃない。ただ…たったひとりの人を、普通に幸せにしてくれるだけでいいのに……)
しかし、祈りは叶わなかった。
どんなに真心を込めて祈りを捧げたところで、1円にもならない。
もうゲーム機もエレキギターも戻ってこない。
笑顔で話しかけてくれた「おねえちゃん」も、もう戻ってはこない。
「ふっ、ふ………!」
あの両親のもとに生まれてきてから今まで。
全ての時間が無駄だったのだと、彼はこの時初めて気づいた。
「ふざけんじゃねえ!」
宣行はテレビに向かって叫ぶと、怒りのままに家を飛び出した。自分を押さえつけてきたもの全てをかなぐり捨てた。
スマートフォンを持たされていなかったため、親や学校から連絡が来ることはなかった。当然のように卒業式もすっぽかし、何のつてもないままたったひとりで知らない町をさまよった。
どうにか住み込みの仕事を見つけて働き始め、ここ最近はひとりであることを楽しむ余裕も出てきた。そうなるまでに2年ほどかかった。
そこへ、役所からあの封筒を送りつけられたのである。
過去を強制的に思い出させられた宣行は怒り、混乱し、実家を出たあの日のようにただひたすら走り続けていた。
(俺はようやく、ようやく自分の人生を生きようとしてるとこなんだ!)
宣行は自転車の速度をさらに上げる。
のんびり走るスクーター程度なら、すでに何台か抜き去った。
(全部なくして…全部捨てて……! バッドエンドで終わっちまった人生を別物に変えてさあ! 必死になって新しく始めようとしてるとこなんだ、邪魔すんな!)
激しい思いは、今も憎悪に近い勢いで燃え盛っている。
しかし脳裏に蘇っていた過去の光景は、疲労と息苦しさにまぎれて少しずつ消え始めた。自転車の前カゴが激しく揺れ、騒々しい音を出す度にそれは顕著になっていった。
(俺はバカだった! もっと早く家を出ればよかった! そうすればおねえちゃんが死ぬこともなかったし、俺の人生が無駄だったなんてことを思い出さずにすんだんだ!)
両親だけが悪いとは思わなかった。
早く踏ん切りをつけられなかった自分も悪かったのだと、宣行は思っていた。
しかしその思い自体、彼が幼い頃から親に抑圧され続けてきた証である。
怒りをそのまま怒りとして解き放てないよう、その中にわずかでも後悔や自虐が入って純粋な怒りになってしまわないよう、両親は彼をうまく洗脳していた。
それを、洗脳された本人が自覚してしまっているのだ。
(バカすぎる…何もかもがっ!)
宣行は、怒りと自分に対する情けなさでどうにかなってしまいそうだった。
(言うことを聞いても無駄、教えを守っても無駄、そんなことばっかりわかってどうする! 俺が何か悪いことをしたってのか!?)
どんなに呼吸が苦しくなっても、速度に恐怖を感じるようになっても、ペダルを踏む勢いを落とさない。
(死ぬなら死ねっ、死んでしまえ! 無駄なことばっかりさせられてきた俺の人生なんか、このまま終わったってかまうもんかよおっ!)
頭の中が真っ白になるまで、自転車をこぎ続ける。
しかし本能に近い深さにまで打ち込まれた真面目さが、彼に交通ルールを破らせなかった。
時折現れる信号が赤になれば、宣行は止まってしまう。自転車では破る者も多い左側通行さえも、彼は守り続けた。
その結果、宣行は事故に遭うことなく、無事に体力を使い果たしたのである。
「はあっ、はあっ、はあっ」
彼は自転車を降りると、それを押しながら歩道脇にある自販機に近づいた。
スタンドを立てて自転車を固定すると、震える手で財布から硬貨を出してスポーツドリンクを買う。
「んぐっ、んぐっ……ぐえっ、げほっ」
渇いた体に流し込んではむせる。
それを繰り返していると、スポーツドリンクはあっという間になくなってしまった。
宣行は迷うことなくすぐ2本目を買う。それを飲み干してようやく、考える余裕が戻ってきた。
3本目を買おうとして、ボタンに伸ばす指が止まる。
(…水にするか)
甘さよりも水分がほしいと感じた彼は、ミネラルウォーターを買った。
先ほど飲んだ2本よりもじっくりと味わい、半分ほど飲んだところで大きく息をつく。
「はああぁ……」
宣行は知らない場所にいた。
国道から1本入っただけなのだが、やけに静かで人気を感じない。
(俺…逃げてばっかだな)
汗まみれの顔を手で何度か拭くと、彼は自嘲気味に笑う。今回の疾走が、実家を飛び出した時に似ていると感じた。
宣行は、自転車をつれて自販機から少し離れる。人気がないのはわかっていたが、万が一を考えて後から買いに来る人の邪魔にならないようにした。
自販機から2メートルほど離れた場所に自転車を止めると、自身は歩道の段差に腰掛ける。
時々吹く風に涼しさを感じながら、車道を挟んだ向こう側を眺めた。
しかし特に思うところはない。疲労のせいで彼は無心になっていた。
時間はただ静かに過ぎる。
その中で、摂取した糖分と水分そして酸素が、少しばかり宣行の疲労を癒やした。
冷静さが彼の心に帰ってくる。
(何を血迷って…こんなとこまで走ってきたんだか)
彼が眺めている間、道の向こうを誰かが歩くことはなかった。
車すら1台も通らず、風の音と自身の呼吸音だけが聴覚を刺激するばかりだった。
あてもなく走って、その結果が今である。
目の届く範囲に、興味をそそられるようなものは何もない。
(…帰るか)
宣行は立ち上がり、ミネラルウォーターのペットボトルを前カゴに入れる。それから自転車のスタンドを上げた。
来た道をそのまま戻ると右側通行になってしまう。彼は車道を歩いて渡り、道路の左側に位置を取る。
(俺にはもう何の関係もない。俺はひとりで生きていく…それでいいんだ)
あらためて過去を置き去りにすべく、宣行は自転車にまたがってペダルを踏もうとした。
その時。
「…ミィ」
どこかから、かすかに猫の鳴き声が聞こえた。
「?」
宣行は思わず周囲を見回す。
だが、猫などどこにも見当たらない。
彼は首をかしげ、聞いた声を分析する。
(今の、やけに高い声だったよな…もしかして子猫?)
「……ミィ…ミィ」
まるで宣行の疑問に答えるかのように、鳴き声が連続して聞こえた。
彼は自転車から降りて、声の出どころを探る。
(どこだ…?)
「ミィ」
鳴き声は、古い家が立ち並ぶ住宅街から聞こえてくるようだった。
(…行ってみるか)
どうせ時間はある。宣行は自転車を両手で押しつつ、住宅街に入っていった。
自販機周辺だけでなく、住宅街にも人気がない。空気はわずかに淀んでいて静かだった。その中を探りさぐり歩くと、いつもは気にならない自転車のカチカチ音がやけに大きく聞こえる。
(今はこんな音でも邪魔に思えるな)
そう感じた宣行は、カチカチ音を止めるために一度足を止める。それから耳をすませて鳴き声を探るということを繰り返した。
その果てに、彼はある建物を見つける。
(なん…じゃこりゃ)
廃屋であることはひと目でわかった。
誰も住んでなどいないと、瞬時に確信できた。
外壁にはいくつか穴が開いており、穴のそばには木の板がある。本来は穴を覆うために打ちつけられたのだろうが、釘がすっかりゆるんでいるせいでだらしなくぶら下がり、覆うという役目を果たしていない。
屋上に数基あるアンテナは倒れ、先端を互いに絡ませ合っている。
(どっちも、今にも落ちそうだな…)
出入口には、アルミサッシでできた引き戸がある。カギはかかっておらず、半開きになっていた。
「ミィ、ミィ」
鳴き声が、半開きの出入口から漏れ出る。
廃屋の周囲には誰もいない。
(誰も気にしてないのか…? それとも周りも空き家?)
宣行は疑問に思いながら廃屋に近づく。
自転車を出入口そばに止めると、スタンドを下ろしてカギをかけた。
その間も、鳴き声はずっと続いている。
「ミィ、ミィッ」
(何かあったのか…?)
出入口そばから、中をのぞき込んでみる。
しかし薄暗い空間が広がるばかりで、鳴き声の主は見当たらない。
(やっぱり入らないとわかんないか。ちょっと気が引けるけど…)
彼は引き戸を動かして隙間を大きくし、そこに自身の体を滑り込ませた。
途端に、外とは違うホコリの臭いが鼻を刺激する。
「うっ…」
宣行はあわてて口元をふさいだ。
その状態のまま、猫がどこにいるのか探ろうとする。と、これまでよりも大きな鳴き声が聞こえてきた。
「ミィッ! ミィッ!」
(左…か?)
彼は思わず手を下ろし、出入口で立ち止まって左を向く。そこには、2階への階段と奥に続く通路があった。
通路の先には共同トイレが見える。
「ミィッ、ミィッ!」
鳴き声は共同トイレ周辺に響いていた。反響も混ざっており、発『声』源がここからなのか上からなのかがわからない。
(先に上から見るか…)
宣行は階段を上り始めた。
階段は完全な直線ではなかった。踊り場はなく、途中まで上ると左へ曲がるつくりになっている。
上りきると、2階の共同トイレ前に出た。位置としては1階共同トイレのほぼ真上である。
しかしここまで来ると鳴き声は遠くなった。
というよりほとんど聞こえない。
「…ミィ……」
(1階か)
場所は絞れた。
宣行は階段を下り、1階共同トイレ前に立つ。古いトイレ特有のすえた悪臭を感じつつ、中に入った。
入ってすぐの左右には手洗い場がある。
左の手洗い場はまだその機能を果たしてくれそうだが、右は備品やらゴミやらさまざまな物が置かれて、水を出せない状態になっていた。
トイレの正面突き当たりには個室のドアが横に3つ並んでおり、左手奥には小便器がある。この小便器は、左側手洗い場の壁を隔てた向こうにあった。
個室のドアは木製でクリーム色に塗られていたが、表面のそこかしこがはがれて茶色い木の部分が見えている。ドアノブはなく、木でできたつまみを左右にスライドすることで開閉することができるようだ。
宣行は、右側と真ん中の個室を開けてみる。
(何もない…)
水洗の和式トイレ以外は何もない。どちらも便器そのものは汚れきっていたが、内部前方の落ち込んだ部分には水が溜まっており、今でも使えるのではないかと思われた。
だが今の彼にとって、トイレが使えるかどうかは重要ではない。右側と真ん中どちらにも鳴き声の主がいなければ、最後の候補に意識を向けるまでだった。
(この中か?)
最後の候補は左側の個室である。ここには他ふたつとは違う部分が3つあった。
まず、木のつまみが逆側についている。つまりドアが左方向に動く「左開き」だということ。
次に、ドアのすぐ前には小便器があり、ドアを開ければそれにぶつかってしまうだろうということ。当然ながら完全には開かず、半分も開けばいい方だろう。かなり細身でなければ中に入れない。
(なんだこりゃ…テキトーもいいとこだな)
あまりのずさんさに宣行は呆れる。
そんな彼の耳に、鳴き声が飛び込んできた。
「ミィッ! ミィッ!」
「!」
鳴き声は、間違いなく目の前の個室から聞こえてきた。
どうやって入ったのかはわからない。わからないが、子猫は確かにここにいる。
(すぐに出してやるからな!)
宣行は、迷うことなく木のつまみをスライドさせる。個室のドアを開けようとした。
しかし開かない。
「え!」
操作を間違えたのかと思い、つまみを逆にスライドさせて引っ張ってみる。
だがドアは動かない。
(な、なんだよくそっ)
ならばと、宣行はドアとドア枠の隙間に指を入れようとした。
しかし隙間は思ったよりも狭く、指だけでなく爪すらも引っかけることができない。
(ダメだ、素手じゃどうしようもない!)
何かないかと彼は後ろを見た。
備品の置かれた手洗い場が目に留まる。そこを重点的に探った。
(…おっ?)
中から古い火バサミが見つかる。
平べったいその先端が、彼の表情を明るく変えた。
(先っぽを突っ込めば…!)
宣行は開かずの個室前に戻り、早速それを試した。
火バサミの先端をぴったり合わせることで強度を増し、その上でドアの隙間に突っ込む。そして火バサミをぐっと押した。
これにより火バサミをつかむ彼の手が力点、隙間の右側つまりドア枠が支点、火バサミの先端が作用点となって接触しているドアに力を伝える。宣行はテコの原理でドアを開けようと考えたのだ。
「うっ、ぐぬっ」
それでもドアは動かない。
火バサミの方が耐えきれず、先端が曲がってしまった。
(ウソだろ!? お前やわらかすぎ!)
彼は火バサミを一度隙間から抜き、くるりとひっくり返してから再び突っ込む。ドアを開けるついでに、曲がった先端の向きを元に戻そうとした。
しかし曲がったからといって、先端の強度が上がったわけではない。火バサミを押すと、今度は逆に曲がってしまう。
「く…!」
「ミッ! ミィイッ!」
悔しがる宣行の耳に、先ほどまでとは少し違う子猫の鳴き声が飛び込む。
どうやら子猫は、誰かがドアを開けようとしていることに気づいたようだ。鳴き方をわずかに強めていた。
これが解放者を発奮させる。
(出してやる…!)
発奮は、彼の頭をスムーズかつ効率的に回転させた。
(隙間に対して真っ直ぐ突っ込むから、すぐ曲がるんだよな…だとしたら!)
宣行は、先端の向きを斜めにした上で隙間に突っ込む。
このアイデアが、隙間と火バサミの触れ合う面積を大幅に増やした。つまり作用点の強度を大幅に上げた。
(出してやるからな、絶対!)
条件さえ整えば、地球であろうとテコの原理で動かすことができる。偉大なる古代の科学者はそう言った。
(地球を動かせるんなら、こんなドアくらいすぐだ!)
廃屋の解放者はそう自身に言い聞かせながら、火バサミをゆっくりかつ力強く押す。
すると、ドアがわずかに動いた。
「おっ」
「ミィッ、ミィィッ!」
「待ってろ、多分いける…!」
宣行の心を、ほのかな希望が照らす。
しかし相棒の火バサミは想像以上に柔らかかった。斜めにすることで強度を上げても、先端が曲がってしまう。
それでも彼はあきらめない。先端が曲がればひっくり返し、また曲がればまたひっくり返しといった具合に、何度でも同じことを繰り返す。
火バサミは確かに柔らかい。だがそれを操る彼の思いは強靭だった。あまりにもしつこいアタックに、ドアの方がガタガタと音を上げ始める。
それは隙間が大きくなってきた証だった。
「ミィッ! ミィッ!」
中から聞こえる鳴き声も鮮明になる。宣行には、子猫が「早く助けて」と自分に訴えかけているように聞こえた。
「あとちょい、あとちょい……!」
隙間が大きくなったことで、火バサミを差し込むことができる長さも増える。やり始めた時よりも効率よく力を伝えることができるようになり、ドアはさらに動いた。
やがて隙間は、指を差し込めるほどにまで大きくなる。
ここで彼は火バサミではなく手を使い、一気に最大の力を込めた。
「んにゃろっ!」
そしてついに、ドアが開く。
「よし!」
思わず漏れた声は勝利の雄叫びだった。
小便器に当たるまでドアを開けた彼は、個室の中を見る。
(あっ)
鳴き声の主、子猫は確かにそこにいた。
その体はとても小さく、ふわふわした茶色い毛に覆われている。生後1~2ヶ月といったところだった。
子猫の姿をその目で確認した宣行は、次に個室内の便器を見る。
(これは…)
他ふたつの個室とは違う部分、その3つめこそこの便器だった。
形こそ同じ和式だが、内部はセメントで埋められている。ドアが小便器にぶつかって完全には開かないせいで、誰も使わないと判断されたようだ。
当然ながら使用された痕跡がないので、他ふたつの便器よりもはるかに清潔な状態だった。
(…よかった。この分なら、変な病気で苦しがってるとかはなさそうだな)
彼は安堵する。子猫は個室から出られずにいただけだった。その障害は、もう自分の手によって取り払われている。何も心配することはないと胸をなで下ろした。
(でも…)
宣行の心に、冷たい風が吹き込む。
もし、便器がセメントで埋められていなければ、子猫はどうなっていただろう。
もしこの和式トイレが、水洗ではなく落下式、いわゆるポットン便所だったなら。
今見ている景色は、全く違ったものになっていたかもしれない。
それを見る彼の心情も、安堵とはほど遠いものになっていたかもしれない。
(…やめよう、想像するのも恐ろしい)
宣行は、大便器がセメントで埋められている幸運を、ただ喜ぶことにした。
「ふう」
心に入った冷たい風を出すために、彼は大きく息を吐く。換気を終えると、やけに静かになった救助対象に目を向けた。
「……」
ドアが開いた時から、子猫は鳴くのをやめていた。
なぜか大便器を挟んだ向こう側に陣取って、尻を落とし後ろ足を絡ませた不安定な座り方をしている。その小さな目で、こちらをじっと見上げていた。
(怖がってんのかな…ドア開けるのにガタガタさせちゃったから)
宣行はそう思い、子猫に向かってゆっくりと手を伸ばしてみる。そっとなでてやれば落ち着くだろうと考えたのだ。
しかしここで、子猫は驚くべき行動に出る。
「カッ!」
口からそんな音を発したかと思うと、彼の手に向かって左前足を振り上げたのだ。
それからすぐに、猫が怒った時に発する「シャー」という声を放った。
(え……)
助けた子猫からあふれる敵意を叩きつけられ、宣行は戸惑う。
気を取り直してもう一度手を伸ばすが、子猫の反応は変わらない。
「カッ! シャァア!」
ドアを開ける前に聞こえていた、かわいらしい鳴き声とは全く違う。
子猫は間違いなく、宣行に対して威嚇行動をとっていた。
(マジか…! 俺を敵だと思ってるのか)
その証拠に、宣行が手を近づけた回数だけ子猫は同じことをする。
「カッ! シャー! カッ、カッ!」
子猫は威嚇する度に前足を振り回すのだが、座っているにも関わらず自分の勢いに振り回されて体がよろけてしまう。姿勢を安定させられるほど、足腰が発達していないようだ。
しかし敵意は本物で、「触れば無事にすむと思うな」という強い意志を感じさせた。
(なんか、恩を仇で返された気分だな)
そんなことを思う宣行だが、心の中には怒りも失望もない。
「カッ! フーッ」
「ふふっ」
威嚇を続ける子猫に、彼は微笑んでみせる。
(完全なる野良猫ってわけだ。いいねえ…親猫の教育、行き届いてんじゃん)
子猫は、宣行に助けられたということがわかっていない。
生まれて1~2ヶ月程度ということは、人間を見るのも初めてなのかもしれない。目の前にいる存在が、正体不明の巨大生物にしか見えていない可能性も十分にある。
(でかいヤツが、手を…いや『器官』を伸ばしてくる……)
宣行は自分に置き換えて考えてみた。
何倍も大きな体を持つ別の生物が、細長い器官の一部を伸ばしてくる。その姿を見てどう思うだろうか。
答えは考えるまでもなかった。
(俺には威嚇なんてできない。逃げるのも無理だろうな…すみっこで震えてるだけだと思う)
なのにこの子猫はどうだ。
自分の体も安定させられないほど小さいのに、確固たる意志で立ち向かおうとしている。
その姿に、宣行は敬意を抱いた。
(やるなあお前。かっこいいよ)
彼は手を伸ばすことを諦める。
火バサミを隣室のドアに立てかけると、静かに立ち上がった。
(ちっちゃくてかわいいから完全に忘れてたけど…)
子猫にそっと背を向ける。
(そうだよな、俺とお前は別の生き物なんだ。同じ生き物でも、血を分けた家族でもわかり合えないのに、別の生き物がわかり合えるなんて…都合のいい思い込みだ)
宣行は個室から離れた。
その歩みは、名残惜しさもあって入ってきた時ほどの速さはない。
(そう、思い込みなんだよ)
手洗い場を抜けてトイレを出る。
その時、背後から小さな鳴き声が聞こえた。
「…ミィ」
か細く頼りない声は、まるで去っていく宣行を呼んでいるように感じられる。
(なんだぁ?)
呼ばれた彼は、嬉々として振り返った。
去ろうとした時の何倍もの速度で、しかし物音はできるだけ立てずに個室前に戻る。中を見ると、子猫は先ほどと全く同じ場所でじっとしていた。
(俺にさんざん威嚇してみせたクセに、知らない場所は怖いのか?)
宣行は苦笑しながらしゃがみ込む。
子猫に向かって、今度は手ではなく人差し指だけを伸ばした。上下左右に動かして気を引こうとする。
(出してやるから、こっちこい)
しかし幼い獣は用心深い。
「…カッ! シャァア」
宣行が指を近づけるだけで、再び前足を振り回してきた。
(うーん…もう少し離してみるか)
彼は子猫の爪が明らかに届かない位置で、指を動かしてみる。
「……」
子猫はそちらを見たり見なかったりした。
指があまりに遠すぎるためか、あまり興味をそそられないようだ。
(どーすっかな…)
宣行は一度手を下ろして対策を練ることにした。
子猫は、彼が個室内に手を入れるだけで威嚇してくる。警戒の度合いはかなり高い。
(とりあえず、外に出すだけ出すか…?)
爪で引っかかれようと気にせず、強引に子猫をつかんでしまおうかと考える。
しかし使用の痕跡がないとはいえ、廃屋の和式トイレという「決して清潔ではないもの」に触れ続けている爪は、当然ながら何らかの菌を持っているだろう。そんなものに皮膚を傷つけられればどうなるか。
(もしかしたら…助けようとした俺の方が、得体の知れない病気にかかるかもしれない)
宣行は、子猫を小さなかわいらしい存在ではなく、自然に生きる野生生物ととらえている。同時に、その野生生物が毒を保有する可能性を考えていた。
(ん…?)
彼は、視界の端にギラリと輝くものを見つける。
そちらに目を向けてみると、ドアの縁から釘が飛び出ていた。
(ナナメってるだけじゃなくて、折れ曲がってる…)
どうやらこれがドアを固定していたらしく、上下2ヶ所に打ち込まれている。
たった2本の釘にあれだけ苦労させられたのかと思うと、宣行はなんだかおかしな気分になった。
(人間の素手でできることなんて、ほんとにたかが知れてるんだな)
火バサミを用いての格闘を経なければ、隙間に爪すら入れられなかった。現実は映画のようにはいかないと、彼は嫌というほど思い知らされた。
個室に関する発見は他にもある。
上の釘を見ている時、その向こうに黒いものを見つけた。
(…なんだ?)
頭を右に倒しながら個室内を見上げると、天井の板がずれているのがわかる。黒いものとは、ずれた部分から見える天井裏の闇だった。
どうやら子猫は、天井裏から便器のタンク伝いに下りてきて、上に戻れなくなってしまったらしい。
(そうか、どうやって入ったのかわかんなかったけど…あそこから…)
なるほどなと宣行は納得する。
しかしすぐに、納得している場合ではないと思い直した。
(ここのことは別にいい。それよりも今は子猫をどうやって出すかだ)
彼は姿勢を戻し、再び対策を練る。
釘や天井に意識が向かったことで気分転換になったのか、先ほどよりも集中することができた。
(素手はヤバい、となると…)
何かつかむものはないだろうか。
そう思った時、ドアを開ける時に使った火バサミが目に入る。
(これでひっつかめばいけそうだな)
宣行は早速、火バサミを個室の中に差し入れた。
「フーッ! カッ!」
子猫は、相手が無機物だろうと構わず全力で威嚇する。
しかし幼いがゆえの経験不足がここで出た。背後に回った敵に対して体を反転させるという発想に至ることができず、その小さな体はついに捕らえられる。
「よし…!」
捕獲者である宣行は思わず声を漏らした。火バサミで子猫をそっとつかみ上げる。
そのまま個室の外に出すとまず子猫を下に置き、先ほどもそうしたように火バサミを隣室のドアに立てかけた。それから、右手で子猫の首後ろをつまむ。
(よっ)
小さな体を持ち上げながら、左手を腰に添えた。
この時、彼は子猫が震えているのに気づく。
(お前…!)
勇ましい威嚇の数々はなんだったのか。
そう思ってしまうほど、子猫はガクガクと震えている。
(怖くてこわくてしょうがないけど、それでも戦おうとした…いや、戦ってたんだな)
宣行は子猫をとても愛おしく感じた。
頬ずりしたい衝動をどうにかこらえつつ、トイレを出て出入口に向かう。
(どこに放してやろうかな…)
出入口付近で足を止めると、宣行は考えた。
抱えた子猫は震えるばかりで暴れたりはしない。そのため、思索の邪魔にはならなかった。
右前方にはこの廃屋に入る時に通過した引き戸があり、隙間からは彼が止めた自転車のカゴが見えている。左方向には廊下が伸びており、今はもう誰も住んでいない居室のドアが並んでいた。
(外だと事故に遭うかもしれない。ちょっと行くと車道あるし。1階も、ふらっと入ってきたヤツに見つかって危ない…ってことは2階か)
とはいえ、2階なら安全というわけではない。また先ほどの個室に落ちてしまう可能性がある。
ただ、これに関して宣行は楽観的だった。
(ドアはもう開けっぱにしてるし、落ちても自力で出られるよな。うん、他よりはマシなはずだ)
彼は満足げにうなずくと、2階へ上がっていった。
トイレ前を通り過ぎ、1階と同じように居室のドアが並ぶ廊下まで行くと、そこで子猫を下ろす。
「じゃあな、達者で暮らせよ」
宣行は優しく告げると、その場を離れた。
階段を下り、出入口を抜けて廃屋の外に出る。その時、自転車の前カゴに入れておいたミネラルウォーターのペットボトルが目に入った。
中身はまだ半分ほど残っている。
(そーいやずっと鳴いてたみたいだし、のど渇いてるかもしんないよな…)
彼はカゴからペットボトルを持ち上げると、再び廃屋に入った。
2階に上がると、子猫はまだ放した場所でじっとしている。
(ミネラルが普通の水より多いから、あげてもいいかわかんないけど…ほんのちょっとなら大丈夫だろ)
宣行はペットボトルのキャップに中身を注ぐ。それを子猫の前に置いた。
「……?」
水をたたえた円形の物体を目にした子猫は、不思議そうにただきょとんとしている。
(なんなのかわかんない、って感じだな)
宣行は苦笑する。
キャップを持ち上げると、子猫の口元に近づけてみた。
(もう威嚇しないっぽいしいけるだろ)
「………」
彼が予測した通り、子猫はもう前足を振り回そうとはしない。
ただ、水を飲もうともしなかった。
(全然渇いてないってことはないだろ。ほれ、ほれ…)
宣行はキャップを押しつける。すると、水がこぼれて子猫の口元を濡らした。
子猫の小さな舌が、それをぺろりとなめ取る。
(あ、そうか)
宣行は気づいた。
(濡らしてやればなめてくれるな)
彼はやり方を変える。キャップをただ押しつけるのではなく、子猫が嫌がらない程度に少しずつ口元を濡らすようにした。
口元が濡れる度に、小さな舌がぺろぺろと踊る。まさに狙い通りだった。少しは子猫の渇きも癒えたはずだと、彼はにっこり微笑んだ。
このあたりから、少しずつ子猫の様子が変わってくる。
(お…?)
キャップの縁が当たって気持ちいいのか、子猫が首の横をこすりつけるようになってきた。
口元をなめるよりこすりつける回数の方が明らかに多くなり、キャップは揺らされて水がこぼれ、その部分ばかりを濡らしていく。
(おお、なんだ甘えてくれるのか)
宣行は嬉しくなり、キャップをひとまず床に置いた。
指でくすぐってやると、子猫は気持ちよさそうに体をくねらせる。
特に首の横やあごの下が気持ちいいようだった。
(うりうりうり)
「……」
特徴的なゴロゴロ音は出さないものの、子猫は満足気に目を細めている。
宣行はくすぐるだけでなく、手のひらで背中全体をなでてみた。彼の触覚は子猫の頼りなさと温かさを伝えるばかりで、持ち上げた時のような震えは感じない。
(…もう、大丈夫そうだな)
ひとしきりなで終わった後で、宣行は子猫から手を離す。
ほとんど空になったキャップに、ペットボトルの中身を補充した。
(エサになるようなものも持ってればよかったんだけど…俺、何も持ってないからさ。ごめんな)
寂しげな表情を浮かべつつ、子猫の背中をもう一度だけなでる。
ずっと一緒にいたいが、もはや自分にできることは何もない。彼は廃屋を去るために立ち上がろうとした。
その時。
「…!」
左から何者かの視線を感じる。
宣行はそちらを見た。
(あ…!)
そこには親猫らしき成猫がいた。
茶色い子猫とは似ても似つかない、黒や茶色がまだらに入ったサビ猫だった。
「………」
親猫はじっと宣行を見ている。
いら立った様子で尻尾を振ったり、体毛を逆立てたりはしていない。彼の出方をうかがっているようだ。
(迎えに来た…いや、俺が気づいてなかっただけで、ずっと見てたのかもしれない)
宣行はそう推測しながら、子猫に向き直る。両手を伸ばすと小さな体をそっと持ち上げた。
(ほら、親御さん来たぞ)
子猫の鼻先を親猫に向けた上で床に置く。
すると子猫はなぜか彼の方へと振り返り、
「ミャン!」
短く鳴いて靴に飛びついてきた。
これを見て、宣行は思わず苦笑してしまう。
(遊んでくれるのか。ありがとうな…でも)
彼は子猫を持ち上げ、再び親猫の前に置く。
(お前はおうちにお帰り)
手を離した。
直後、親猫が子猫の首後ろをくわえ上げ、彼のそばから走り去る。
(…さよなら)
宣行は、行き先も見届けないまま立ち上がった。
廃屋を出た後で、右手に持っていたペットボトルの中身を飲み干す。空になったそれを自転車の前カゴに放り込んだ。
自転車のカギを開け、スタンドを上げる。自転車を押しながら歩いてぐるりと回り、廃屋に背を向けた。
この間、彼は一度たりとも廃屋に目を向けなかった。
子猫と親猫がいるであろう2階を、見上げることもなかった。
(鳴き声がうるさかっただけだからな)
宣行はサドルにまたがり、ペダルをこぎ始める。
その表情は明るい。
(あんなとこで死なれたんじゃ、俺の夢見が悪いってだけだ。別にいいことをしたわけじゃない)
自販機のある道を抜けて国道に入る。車の騒々しい走行音が、聴覚を鈍くした。
微細なホコリが口に入るのも構わずに、彼は少しだけ大きな声を出す。
「あー、うるさかったなー子猫!」
あの子猫は、静かな廃屋で親猫と一緒に暮らしていくのだろう。
助けた宣行に対してあれだけ威嚇してきたのだ、危険に対しても野生に近い敏感さを発揮するのは間違いない。
もしあの廃屋が崩れ落ちても、親子そろって傷ひとつなく脱出できる。
そして、どこか別の場所でたくましく生きていくのだ。
(俺にはもう家族なんてものはないし、幸せになれそうもない)
孤独な人生に、幸福は訪れない。
宣行だけでなく、彼を抑圧し続けてきた家族だけでなく、この世界にすむ人間のほぼ全てがそんな絶望に脅迫されている。
(でも…)
彼は、絶望に向かってニヤリと笑ってみせた。
(そんな俺に助けられたからって、お前が幸せになっちゃいけない理由はないんだ)
ペダルをこぐ速度を上げる。
自転車は宣行を道の彼方へ運ぶ。
その先には、抑圧から脱出したことで得た自由がある。
彼は再び汗にまみれながら、笑顔で言い放った。
「親猫と一生幸せになってろ!」
澄み切った青い空の下を、
雑然とした国道のすぐ脇にある自転車専用レーンを、真っ直ぐに走っていくのだった。
>Fin.
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