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おまじない
深原詩織という女性は決して、ふしだらなタイプではない。
自分でいうのもおかしいが、どちらかというと地味なタイプだ。22歳だし、男性経験がないわけではないが、数回しか会っていない恭介と深い関係になるなんて、自分でもまだ信じられない。恭介の寝顔を見ながら、そう思う。
悲惨な出来事が続いて疲労困憊だったのだろう。恭介は行為の後、すぐ熟睡してしまった。
詩織は静かに、ビジネスホテルの部屋を出た。ロビーに降りてみると、案の定、バックアップの女性が待っていた。詩織の顔を見るなり、立ち上がって表玄関の方へと向かう。
詩織はゆっくりと追いかけた。監視カメラから逃れるには、ホテルから出た方がいい。夜更けの街角に人影はなかった。
「位置情報は把握しているから、何となく状況はわかっていたけど、それでもやっぱり心配したよ」女性は歩きながら、独り言のように話す。「もらったメモでは、2時間遅れでマンションに戻るって書いてあったからさ」
「すいません、孝子さん」
孝子にはいつも世話になっている。妹のように可愛がってくれるので、詩織はありがたく思っていた。
「まさか、詩織が男とお泊りとはね。何か笑っちゃう」
「えっ、どうして?」
「だって、こんなに可愛いのに、全然男の子と遊ばないじゃない。実は、ずっと気になっていたんだ。だから、何かうれしい」
そんな心配までかけていたのか。詩織は申し訳なく思う。
「……すいません」
「ううん、謝るところじゃない」孝子はにっこり笑う。「詩織はまだ若いんだし、もっと人生をエンジョイしなよ。ほら、私みたいなお手本が身近にいるんだから、少しは見習いなさい」
詩織は思わず苦笑する。
「でも、何となくわかるな。私にも経験があるよ。なぜか、つい、そんな気になってしまう夜だったんでしょ?」
「ええ、まぁ、そんなところです」
「ふうん、武士の情けじゃ。深くは聞かないよ。で、どうするの、このまま帰る?」
「いえ、ホテルで一休みして、朝になったら、マンションに戻ります」
「了解。でも、朝帰りなんて報告はできないな。上にはうまく誤魔化しておくから、万一の場合には話を合わせてよ」
「すいません、お世話をかけます」
「じゃ、そろそろ行くよ。耳タコだろうけど、ルール違反にはくれぐれも気をつけて」
孝子を去りかけたが、すぐ立ち止まる。
「そうだ。〈おまじない〉を教えておくよ」
「おまじない? 何ですか?」
「敵に襲われて絶体絶命になったら、この言葉を唱えるの」
孝子は八文字の言葉を伝えた。
「一体どういう意味なんですか?」
「クリムゾンカードのデータ解析から判明したんだけど、一時的に敵の動きを封じる効果があるんだって。申し訳ないけど、それ以上のことはわからない。あくまで〈おまじない〉だから、それを使うような状況にならないことを心がけて」
「はい、わかりました」
「じゃ、気をつけてね」
孝子は詩織に背を向けると、今度は振り返らずに立ち去っていった。
詩織はビルの谷間で一人取り残される。何気なく天を仰ぐと、辺りのビルが照明を落としているせいか、きれいな星空を眺めることができた。
少しだけ幸せな気持ちになって、詩織は軽やかに歩き始める。
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