娘さんを僕にください!

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静かな居間に緊張感が走っていた。 僕は先程から深呼吸を繰り返している。 やはり結婚の挨拶は緊張するもの。 しかも何故か本来同席するはずの婚約者である野坂彩美とそのお母さんは欠席していた。 つまりこの結婚の挨拶という人生の大一番に彼女の父親と2人だけの部屋で挑まなければならない。 それ故にこの部屋には鉛よりも重たい空気が流れていた。 お互いに目を合わせたり逸らしたりそわそわしている。 彩美のお父さんは僕のことを赤の他人を見るようなよそよそしさで見ている。 何が何でも簡単には返事はしない、そんな意思が伺える。 それでもずっと黙っているわけにはいかない。 僕は意を決して重たい口をゆっくりと開く。 「お父さん、娘さんを僕にくださぁい!」 緊張しすぎて声が裏返ってしまったが彩美のお父さんは笑うことなく尚怪訝な表情でこちらを見る。 穴があったら入りたいがそんなことを言っている場合ではない。 僕は何事もなかったかのように彩美のお父さんの返事を待った。 「私は君のお父さんではないが。」 静かに言い放つ。 やはり一筋縄ではいかない。 だがここで引き下がるわけにはいかない。 本気を見せなければならない。 「お父さん、僕は諦めません。お父さんがオッケーしてくれるまで引き下がるつもりはありません。」 「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない。」 「いいえ、これからお父さんと呼ばせていただきます。」 「いや、だから私は君のお父さんではないんだ。」 「そうですか…大切な娘さんを渡したくない気持ちはわかりますが、でも僕は誰よりも娘さんを幸せにしてみます!だから僕に娘さんをください!」 「いや、あのねぇ…ほんとに私はお父さんじゃないんだよ。」 「そこまで拒絶するんですか…でも僕は諦めませんよ!」 「いや、そうじゃなくて、私はお父さんじゃないんだよ。」 「そうですか…でも僕は結婚を認めてもらってあなたをお父さんと呼ばせてもらいますよ!」 「いや、私に娘なんていないんだが…」 「へ?」 思わず間抜けな声が出てしまう。 「今はただの独り身のおじさんだよ。」 「え?あれ?…」 顔が一瞬で青くなる。 「ヤバ…」と小声で呟き目の前のおじさんを見る。 なぜだ?ちゃんと貰った住所の通りの場所に来て表札もきちんと確認したはずなのに… 頭の中には無数のはてなマークが浮かんでいるが今はまず謝るしかない。 「す、すいません!」 必死に頭を下げる。 視界にはおじさんではなく畳があった。 「まあまあ頭を上げなさい。」 そう言われて正面を見るとおじさんは穏やかに微笑んでいた。 「間違いは誰にでもあるから仕方ない。気にしなくてもいいよ。」 突然家に上がり込んでひたすら自分のことをお父さんと呼ぶ謎の男を前にしても和やかなこのおじさんに悪い印象はなかった。 「あの、これお詫びと言ったらなんですが…」 そう言って今日彩美のご両親に渡す予定にしていた菓子折を差し出した。 「それ、今日持って行く予定のものだろ?そんな大事なもの受け取れないよ…」 「今から挨拶に行っても遅い時間になってしまうと思うので平謝りしてまた日を改めようと思ってます。それにあなたにもご迷惑をおかけしてしまったので何も無しでは帰れないです。」 さすがに勝手に見ず知らずの他人の家に上がり、勝手にお父さんと呼んでしまったのだからそのくらいはしないといけない。 「そうかい。それならありがたく頂くよ。」 受け取ってもらえこの家を後にしようとしたらおじさんは「君も一つ食べたらどうだい?」と言って食器棚からひまわりの柄の食器を取り出しチョコレートを乗せる。 どんな味のお菓子か気になっていたのでお言葉に甘えて一つ頂く。 「私もここの洋菓子は好きなんだよ。でもここのお菓子はチョコレートよりもタルトの方がいいと思うよ。」 「そうなんですね!参考にします。」 「タルトにするならマスカットにするのが良い。あまり売れ行きは良くないみたいだが味はここのお店では1番美味しいよ。」 「なるほど。」と頷く。 おじさんは洋菓子に詳しいのか為になることを教えてくれた。 結果的に有益な情報を貰えたし怪我の功名かもしれない。 おじさんには迷惑をかけたが… そうして僕はおじさんの家を出る。 来週今度こそ彩美のご両親に挨拶に行く時にはマスカットのタルトを買ってみることにしよう。
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