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湿った土の匂いが漂ってくれば雨の到来は近い。
「もうすぐ雨降るよ」と言うと、あなたは嫌な顔をする。
飛び出したあの夜から、もう六日が経つ。一度も連絡をくれないまま、明日はひとりぼっちの誕生日。
田舎の日曜日を過ごすように、ゆったりと時を楽しんでほしい。それはホテルが掲げた言葉。
リビングはフレンチスタイルのアンティーク家具が並ぶ、暖炉のある部屋で、清楚な白、ベージュ、クリーム色、グレイを基調としたシックな色合い。
ここを選んだ決め手は庭の写真だった。
儚げに揺れている花たちは、自然の中で自由気ままに生きているようで、でもきちんと手入れをされていることがわかる。さり気ないハーブの花の多くは、雨の六月に咲くの。
*
理由のもう一つは、とある古い教会にある一枚のシャガールを見たかったことだ。
星也君の空色の傘を借りて、雨の中を歩き出した。この傘を差していると、気持ちが浮き立つ。
青い色は何を表しているのかな。やさしく包み込むようなシャガールブルー。
空なのか、海なのか、宵闇なのか、風なのか。
雨、ではないのだろうか。
だいすきな一枚の絵の前で、ずっとひとり占めして見つめる。
静かな音が流れてくる。表情を幾重にもまとったその色は、こちらの心地次第で、しあわせにも、哀しみにも、慈しみにもとれる。
霧雨に包まれているかのように、或いは優しく、時に冷たく。
*
帰ってきてハーブの花を見つめていたら、星也君が「おかえりなさい」って、窓から声をかけてくれる。
「これ、なあに?」
葉や茎が白い細かい綿毛で覆われていて、さわるとやわらかくてきもちいいの。
「ラムズイヤーっていいます。葉の形が羊の耳みたいでしょ」
ほんとだ、メェーって鳴きそう。雨上がりの庭の葉たちは、水滴がくっついて、きらきらして見える、自然の宝石。
「ハーブティ、いかがですか」
星也君が入れてくれたガラスのティーポットは、金魚鉢くらいの大きさでゆらゆら葉っぱが泳いでいる。
「レモン三姉妹です。三兄弟かもしれません」
細長いのはレモングラス、和名が檸檬茅。
ライトグリーンのレモンバーベナ、香水木。
みつばちに人気の丸い葉レモンバーム、香水薄荷。
今まで飲んだハーブティの配合はどれも薬くさかったけど、これはすっきりしてるのに、お砂糖を入れずとも甘い。蜂蜜もあるけどそのまま飲みたい。
はぁー。大きなため息が漏れてしまった。口からぽわっと出て宙に浮かぶ。
透明なティーポットに一瞬太陽の光が射して影を落とした。
明るいまま降り続けている、そう天気雨だ。
「おっきなため息でしたね。彼氏と喧嘩でもしたんですか」
「黙ってここに来てしまいました」
「一人残された方は、さみしがってますね」
*
今夜の泊り客は私一人だけみたい。
テーブルのすぐ向こうに白いタイルのオープンキッチンがあって、友人の家に招かれたようなあたたかさを感じる。思わず食器棚から、このカップがいいなって選んでしまいそう。
星也君、ソムリエナイフ使えるんだ。上手にくるって開けてる。
一緒に飲んでほしくて「君はもう飲んでいいのかな?」と聞くと、「先月、二十歳になりました」ですって。
リースリングを頂きながら、黒板のメニューに目を通す。
・サーモンとディルのマリネ
・アンチョビポテト キャラウェイと蕪のピクルス添え
・真鯛のポアレのクリームソース ロケットサラダ仕立て
・ワイルドストロベリーシャーベット
あ、フォカッチャに、ローズマリーが入っている。
どれも香りがよくてお料理に合ってる。
おいしい、しあわせなひととき。
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