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「そう……ねぇ、帰っておいでよ。竜二くんの好きなビーフシチュー作って待ってるよ」
あぁ、台所からただよってくるいい匂いは、ビーフシチューだったんだ。僕にも少し分けて欲しいな。
『あのさぁ、お前のそういうとこ、ヤなんだよ』
そういうとこって? と尋ねるサトコさんの声が、可哀想にちょっと震えている。
『なんかあったらさ、料理で機嫌取ろうとすんじゃん。全然問題の解決になってねぇし、こっちも食いもんにつられるほどガキじゃねぇっての』
「そんな! 私は少しでも竜二くんに喜んでもらおうと思って!」
『とかなんとか言いながら、同じ会社の男とよろしくやってるんだろ?』
おや。それは初耳。僕の耳はピーンと立って、ふたりの会話をもれなくキャッチしている。あくまで視線は明後日の方向を向いているけどね。
「食事に行っただけよ!」
『休日に、わざわざスカート穿いてめかしこんで? お前、家じゃいっつも同じような格好じゃん。色気のかけらもねぇくせに』
「待ち合わせたのがお洒落なカフェだったから、TPOに合わせただけよ。富岡さんは入社したころからお世話になってる先輩で、いろいろと相談に乗ってもらってるの」
『相談? 旦那とセックスレスなんです、どうしましょ? なんて、よく男に相談できるな』
「そんな、直接的なことは言ってないわ! それに、もともとは竜二くんが私を放ったらかしにするからいけないんじゃない。私たち、もう一年以上してないよ……? 誰でもいいんじゃないの。竜二くんとしたいの。それなのに竜二くんがそんなんじゃ、私どうしていいか……」
どんどんヒートアップしていくふたりの会話をふたりの会話を、僕はゆらゆら尻尾をふりながら聞いている。どうやら、この夫婦のケンカの主な原因は性生活の不満足にあるようだ。離婚原因不動のトップを誇る「性格の不一致」は、実は「性の不一致」であるとも言われる。おろそかにしていい問題ではない。
「――だから、浮気じゃないって! 私だけが悪者なの? 竜二くんはちっとも悪くないって言うの? おかしいよ、そんなの。だって、夫婦の問題じゃない! ちょっと……!」
プツン、と音を立てて通話が切れた。スマートフォンを両手で握り締めたサトコさんは「そんな言い方ってないよ……」と力なく呟いて、ラグの上に座り込んだ。隣にソファーがあるのに、そちらに移動する元気もないようだ。
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