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サトコさんが鼻歌を歌いながらシャワーを浴びている。今夜の気晴らしはそれほど楽しいものだったのかな。あぁ、これはちょっとまずいな、と僕は後ろ足で耳の裏を掻いた。
僕に慰められた人間は、一時的に心に空いた穴が塞がれた気がして、安心する。それと同時に、穴は塞がっても空洞は満たされないまま残っていることに気付いて、ひどく不安になる。その不安をパートナーが慰めてくれればいいのだけれど、そうでない場合、別の人間に優しさを求めてしまうことがあるのだ。
サトコさんも、そんな風に心が揺れ動いている気がする。
僕は別に家庭を壊すつもりじゃないんだけど、僕がお世話になったおうちでは大抵、というか百パーセントそうなってしまうんだよね。僕って、ひょっとして疫病神なのかしら。いやいや違うね、僕はただの悪魔さ。
タオルを頭に巻き付けたパジャマ姿のサトコさんは、ダイニングテーブルに置かれた離婚届をじっと見ていた。片手にはビール。もう片方には、ボールペン。
さらさらさら、そして、印鑑をトン。
たったそれだけの仕草で、ふたりの夫婦生活はあっけなく終わってしまった。あとはこれを役所に届ければ、晴れて世間も公認する赤の他人同士に戻れるわけだ。
僕はダイニングテーブルに飛び乗って、サトコさんの顔を見上げた。とても複雑な表情をしている。喪失感、達成感、安堵感――そんなものがごちゃごちゃに混ざり合って、黒い瞳はなみなみと水をたたえている。
「五年間、築いてきたものが終わる瞬間なんて、あっという間ね」
彼女は涙をこぼしながら、それでも笑顔で僕の頭を撫でた。
僕はくるんくるんと尻尾を振りながら、二人分の署名捺印が終わった離婚届の上を歩いた。
ザァザァとひどい雨音がする。本降りになってきたようだ。
サトコさんが眠っている真っ暗な寝室を、僕は音もたてずに抜け出した。これも肉球のなせる業。そのまま玄関まで歩いくと、ドアにかかった鍵を回して、ドアノブを押し下げ、するりと外の世界へ躍り出た。雨音が大きくなった。
さよなら、サトコさん。どうもお世話になりました。
そう告げる代わりに、尻尾をひと振りして、僕は夜の町に繰り出した。人間というのはけっこう親切な生き物で、雨の中にゃあにゃあ泣いていると、誰かが必ず拾ってくれるのだ。犬の場合だと保健所に通報されたりするので、やっぱり猫の姿がいいと思う。
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