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僕は濡れネズミになりながら――あぁ、ネズミじゃなくて猫の姿だけどね。四つ足でとぼとぼ歩いた。こんな真夜中に公園に行っても誰も拾ってくれないだろうから、繁華街へ行こう。東京には夜も眠らない町がいくらでもある。
ざぁざぁ、てくてく、ざぁざぁ。
雨の中、明るい方角を目指して歩く。やがて、人間がたくさん集まる通りに出た。チカチカ光るネオンの看板、自動ドアが開くたび漏れるパチンコの音、道端にぎゅうぎゅうに詰め込まれた自転車、中身が残ってる空き缶。そういった雑多にあふれるもののなかに、僕は紛れ込んで行く。
毛皮が水を吸って重い。こんなとき、猫の体は不便だな……前足で顔を拭っていると、見知った人物がお店から出てきた。
おやおや、リュウジくんじゃないですか。女性と一緒、腰ともお尻ともつかぬややこしい位置に片手を添え、なにやら談笑している。ずいぶん親し気だなと思っていたら、いきなりのディープキス。渋い声で甘く女性の名を呼ぶ。サトコさんのことは「お前」としか呼ばなかったことに、きっと気付いてもいないんだろうね。
夫婦という数式は、因数分解すれば男と女という、人間社会を構成する最小単位に戻る。たったそれだけの、当たり前の方程式。
だから僕はなにも言わずにリュウジくんの後ろを通り過ぎる。僕に気付いた飲み屋のお姉さんたちに軽く尻尾を振りながら歩き、やがてあるマンションの前で座り込んだ。
にゃー、にゃー。
僕の鳴き声は、孤独を抱えた人間の心に直接響く。
だから、僕の鳴き声に惹かれてひとりの女性がやって来た。背中の大きく空いたピンク色のワンピースを着た、まだ若い女性だ。左手の薬指に指輪はない。独身か、それとも商売のために外しているのか。
「可哀想に、お腹が空いているのね」
彼女は白くたおやかな手で、僕を抱き上げた。
そう、僕は飢えている。もっと、人間社会の営みを観察したい。もっともっと、いろんな人間の愛欲を探求したいのだ。あぁ、僕はなんて勤勉なんだろう。僕のことを怠惰と呼ぶ人は、ちょっと反省してもらいたい。
僕は素直に彼女の細い腕に抱かれ、マンションの中に入って行った。
僕の名前はベルフェゴール。
今度は、あなたの生活にお邪魔します。
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