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部屋に帰ってきたひとみちゃんは、大股でベッドまで歩み寄ると、脇にあるキャビネットの上に、ドンと音がするくらい乱暴に花瓶を置く。
「変なふうに誤解されると、私のほうこそ困ります!」
ご丁寧に俺の顔を睨みつけながら、きっぱりと言い切る彼女の様子に、看護師さんは首をすくめ、二、三歩後退った。
「そっか。ゴメンね」
とばっちりを受けないようにだろうか、そのままそそくさと病室を出て行ってしまう。
あまりにも気まずい雰囲気の中に、二人きりで取り残されてしまって、ずしりと肩の上に重荷を感じる。
俺はゆっくりと、ベッドの横に立ち尽くすひとみちゃんを見上げた。
こぶしを握りしめて、首だけ無理にひねったおかしな体勢で、あからさまに俺から顔を逸らしている小さめな横顔。
「……怒ってんの?」
率直に聞いてみたら、無言のまま体までひねって、本格的に背中を向けられる。
窓の外のすずめのさえずりが、チュン、チュンチュンと、たっぷり五匹分は聞こえてから、
「怒ってないわよ」
と答えた声は、俺にはどうしたって怒ってるように聞こえるんだが、笑いをこらえて、今までずっとそうしてきたように、それ以上は追及しないことにした。
「そう」
ベッド横のキャビネットから引き出したテーブルの上には、看護師さんが手際よく準備してってくれた朝食が並んでいる。
朝の定番のメニュー。
ご飯に味噌汁に目玉焼き。
つけあわせのレタスの隣には真っ赤なプチトマト。
まるで目には見えない針金か何かで体をがんじがらめにされたように、かたくなに俺に背を向け続けるひとみちゃんのことはひとまず置いておいて、俺は、そのちょっと冷めかけた朝食に手を伸ばした。
「いただきます」
変に気を遣うことはない。
物心つく前から、本当の兄妹のように育った従兄妹。
俺にとってひとみちゃんは、数少ない身内の中でもとりわけ気安い相手だ。
これと言って解決になる何かがなくても、俺が朝食を食べ始めたことで、それまでのやり取りはチャラになるらしい。
微動だにせず立ち尽くしていたひとみちゃんが、ようやく窓に向かって歩き始め、朝日が燦々と射しこむ南側の窓を、勢い良くガラガラガラッと開けた。
(よしっ!)
心の中で小さくガッツポ―ズした俺は、味噌汁のお椀に口をつける。
上目遣いに、外の景色を見るともなく見下ろしている不機嫌な横顔をチラリと盗み見ると、
「陸兄から、着替えあずかってきたから」
視線を鋭く察知したらしいひとみちゃんが、ふり返りもせずに突然口を開き、ベッド横の床に直置きしてあった紙袋を指差した。
そのあまりのタイミングの良さに、思わずお椀を落っことしそうになりながらも、
「そっか。ありがとう」
俺はなんでもないふりを心がけ、箸を持った右手を上げた。
ハアアッと狭い病室に響き渡るほどにため息を吐くと、ひとみちゃんはついに体ごと俺をふり返る。
「確かにお節介だろうけど……実際、私が来ないと、海里は困るでしょ?」
窓枠に両肘をつくようにして体重を預けながら、心の奥まで見透かしてしまいそうに大きな瞳で真っ直ぐに見つめられると、ドキリと心臓が跳ねる。
『目がキツイ』と形容されることの多いひとみちゃんの真摯な瞳には、いつだって隙がない。
下手なごまかしや嘘なんて通用しそうにない雰囲気がある。
俺は心のままにコクリと頷いた。
「うん、そうだね。ゴメン」
仕事で日本中を駆け回っている父さんは、よほどの時でなければ病院に顔を出せない。
五つ年上の兄貴は大学生で、暇を見つけては世話を焼きに来てくれるけれど、それにも限度がある。
母さんは、――そう、俺が六つの時にすでに亡くなっていた。
母さんの姉さんにあたる人がひとみちゃんのお母さんで、我が家の近くに住んでいたこともあり、昔から何かと俺と兄貴の世話を焼いてくれている。
伯母さんにいつもくっついて来ていたひとみちゃんが、同じ年で同じ学校に通う俺をフォローしてくれるようになったのは、当然と言えば当然だ。
「……本当は感謝してるよ」
俺のこんなストレートな言い方に、ひとみちゃんは弱い。
自分が単刀直入にしゃべるわりには、人に素直な感謝を向けられるのは照れ臭いらしくて、対応に困って、ちょっとそわそわする。
いつも強気な彼女のそんな姿が面白くて、わざとこんなふうに言ってみるんだから、俺は本当はかなり意地が悪い。
予想どおり、やっぱり少し困ったように、
「私、そろそろ学校に行くから」
口にするが早いか、ベッド横に置いていた学生鞄を猛ダッシュで抱え上げ、すぐさま部屋から出て行く彼女を、俺は内心ほくそえみながら、大真面目な顔で見送る。
朝食を食べる手は休めないまま、
「いってらっしゃーい」
急ぐ背中に言葉だけを送ると、入り口のところで立ち止まったひとみちゃんが思いがけずこちらをふり返った。
「海里。やっぱりもう絵は描かないの?」
抜き打ちの直球に内心は焦りながらも、俺は全然動じなかったふりをして、目玉焼きの切れ端を口の中に放りこむ。
「うん、そうかもね」
「そう」
短く答えてまた走り出したひとみちゃんが、どんな表情で何を思ったのかはわからない。
けれど口に入れた食べ物は、単なる習慣で体が勝手に噛み砕いて飲みこんでいるだけ――。
実際にはなんの味も感じられていない俺は、とても平静なんかじゃない自分の状態を痛いくらいに自覚していた。
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