1.9カ月ぶりの退院

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 ちょうど病院の建物から出て、大通りに通じる長い坂道に一歩を踏み出したところだったひとみちゃんは、顔を真っ直ぐ進行方向へ向けて、およそ女の子らしくない大股でズンズンと進んでいる。  背筋をピシッと伸ばして、長い髪を風になびかせて、颯爽と遠ざかっていく。    坂道の両脇にキチンと並んで植樹されている大きな街路樹は、今まさに新緑が芽吹き始めだった。  濃かったり淡かったりのさまざまな緑に彩られている町並みの中を、どんどん小さくなっていくひとみちゃんの凛とした後ろ姿は、まるでくっきりと太い線で描かれた水彩画のようだった。   彼女の持つ清廉な雰囲気が五月の爽やかな朝にぴったりで、見惚れるほどに絵になっていた。    頭の中にあるキャンバスにその風景をしっかりと写し取りながら、小さくなっていく後ろ姿を見送っていた俺は、自分でも気づかない間にどうやら笑顔になっていたらしい。   「海里君。何を笑ってるんだい?」  背後から声をかけられるまで、その人が部屋に入って来たことにさえ気がつかなかった。    急に話しかけられてかなりドキリとする。  ――その声は日に幾度となく病室を訪れる看護師さんたちのものではなかった。   「いい知らせがあるよ」    思わせぶりな言い方にまんまと引っかかって、慌ててふり返ってしまい、そんな自分はやっぱり本当の意味では、どんなことだって諦めていないんだと苦笑する。    部屋の入り口に立つ主治医の石井先生は、俺のそんな様子に、口元の笑いジワをより深くして笑った。   「どうだろう? そろそろ退院してみてもいいかな、と思ってるんだけど……?」  キュッキュッキュッと室内履きの音をさせて俺に歩み寄って来た先生は、ポンと軽やかに俺の右肩を叩く。   「本当ですか?」  間髪入れずに聞き返してしまって、シワだらけの笑顔をますますクシャクシャにさせてしまった。   「ああ。だいぶ長い間、がんばったからね」  先生は小さな子供を誉めるかのように、自分より背が高い俺の頭をちょっと背伸び気味にグリグリと撫で回す。   「でも、油断は禁物だぞ」  まだその言葉の正しい意味も良くわからない頃から、何度も聞かされてきたセリフさえも、今日はなんだか耳に心地良かった。   「はい」  平静を装って返事をしたつもりだったのに、先生が俺の頭をいっそう強くかき混ぜる。  その力強さと、俺を見上げる少々潤み気味の眼差しに、どうやら自分が飛びっきりの笑顔になっていたらしいことに気づいた。   (しょうがないだろう……だって、ずいぶんひさしぶりの自由なんだ……)    頭の中で急速に回転し始めた楽しい想像に、俺は今にも踊りだしてしまいそうに浮かれていた。 (まず何をしようか? 誰と会う? 初めての高校は?)    今すぐにでもこの病室を飛び出して、家まで飛んで帰りたいくらいだった。 (父さんに知らせなきゃ。それとも兄貴か? やっぱりひとみちゃんかな……?)    ザワつく胸を必死に落ち着かせながら、すでに彼女の後ろ姿が見えなくなった坂道を、もう一度見下ろしてみる。  気持ちのいい風が吹くあの場所を、もうすぐ歩くことができる。  他の誰でもない自分自身で。  それはなんて素敵なんだろう。    窓の桟に頭を持たれかけて目を閉じ、俺は少しだけ想像してみた。 (一つずつやればいい、急がずゆっくりと。この一年間やりたかったことを、順番にやっていけばいいんだ……)   『自分のやりたいことがやれる』――それは俺にとってこの上ない贅沢だった。    長い間叶わない願いだったからこそ、その価値がよくわかった。  今のこの喜びは、そう何度も経験するようなものじゃない。  できるならいつまでも、この浮き立つような幸せに浸っていたい。    こうして目を閉じて初夏の風を感じていると、やっぱり退院が取り消しになったなんて、今まで何度も俺を落ちこませた事態には、今度こそならないと思える。   (ひょっとしたらさ……このまま病状まで良い方向に向かうことだってあるかもしれないよな……?)    らしくもなく根拠のない夢まで見てしまった。  これまで随分慎重に、かなり用心深く生きてきたつもりだったのに、迂闊にも小さな希望を抱いてしまった。   『希望』は人が生きていく中で、辛い時や悲しい時の魂の拠りどころになるのかもしれない。  それは確かにそうだけど、同時に、これまで自分を守ってきた安全圏からの逸脱を招きはしないだろうか。  ひねくれ者の俺は、いつだってそんなふうに斜めに考えていたはずだったのに――。    うっかり『希望』なんて持ってしまった俺は、その時、石井先生が俺をそっと残して、静かに病室を去ったことに気づいていなかった。  もちろん、廊下に出た途端、先生が両手で顔を覆ってしまったことも――。        ――この退院の本当の意味なんて、まったく疑ってもいなかった。
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