雨に濡れた点滅信号

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今日は雨か。 ふいに蘇りそうになる苦しい記憶を心の奥底におしこむ。 雨の日は、家の前の交差点の傍に立って、点滅信号を渡ろうとする人に注意をする。 それが私のあの日からの習慣だ。 もうこれ以上、私や息子みたいな人を増やしてなるものか。 ちか、ちか、ちか。 青信号が点滅する。 あ、黒のランドセルの女の子が駆け足で横断歩道を渡ってきた。 女子がまだ横断歩道を渡り終えていない間に信号が赤になる。 私はすかさずぱしゃりとスマホで写真をとった。 横断歩道を渡り終え、急ぎ足で去ろうとする女子の腕をつかむ。 「こら、待ちなさい」 私がそう言うと、女子は怪訝そうに眉をひそめて私を見た。 この子からしたら私は不審者だろう。 しかし、私は違う。 私は、正しいことを教えるのだ。 「あんた、今、赤信号を渡ったでしょう。私はこの目で見たわ。危ないじゃないの。さあ反省しなさい、今度からもうしないと私に誓いなさい」 ああ、これで私は一人救うことができる。 女子が口を開く。 私は女子から謝罪の言葉を待つ。 が、発されたのは意外な言葉だった。 「離してくれません?腕」 ああ、どうやらこの子は、最近の若者によくいる、自分のことしか考えられない子なのだ。 私は少し怖い顔をして、正しいことを話して聞かせる。 「あのね、あなたはよくても事故になったら意味がないし、車の運転手にも被害がいくわ。それに、赤信号をわたってはいけないと学校で教わったでしょう?訴えるわよ。さあ、今ここで、私に誓いなさい」 私がそう言うと、女子はさらに不機嫌そうに眉間のしわを深めた。 いいわよ、なんでも言いなさい。 あなたのような自分のことしか考えない愚かな若者の発言なんて、探さなくったってアラだらけなんだから。 「物的証拠はあるんですか?物的証拠もないのに訴えないでもらえます?」 予想していたのとは違う方向の質問に、私は数瞬言葉が出てこなかった。 「私、家に帰ってやることがあるんですよ。義務が課せられているんです。あなたに今時間がとられているわけですが、あなたは責任とれるんですか?責任とれない行動なんてとるものじゃないですよ。物的証拠もないのに訴えるとか、無駄でしかないんですが。」 ああ、裁判について無知な若者は何でもかんでも証拠、証拠だ。 これなら言い返せる。 「物的証拠?ええ、あるわよ。私はバッチリあなたの写真をとったもの。」 そう言って私はスマホの画面を少女に見せる。 「あ、本当ですね」 ほら、認めるしかないでしょう。 「じゃあ私もあなたを訴えますね」 「え?」 私を、訴える? 「勝手に他人の許可なく写真を撮っていいのは、新聞記者などの報道関係者、つまりマスコミの方々だけですので。この写真は、あなたにとっても私にとっても、重要な証拠品になるようですよ」 思いもしなかった反論。 少女は、表情をぴくりと動かすこともせず、淡々と言う。 小学生だからと侮っていた。 小学生が、まともな論理を私に返すなんて思わなかった。 若干の焦り。 いや、と私は思う。 確かにこの子は正論を言っている。 が、私だって正しいのだ。 臆したり遠慮したりする必要は、ない。 そう冷静に考えながらも、怒りがわいてくる。 「ていうか、それを言い出したらきりがありませんよ。最近発表された新道路交通法では、仮に歩道いっぱいに歩行者が並んでいても、自転車はベルを鳴らしてはいけないとされていること、ご存知ですか?でも街中では普通にベルを鳴らして歩行者に避けさせる自転車がいますよね。それをあなたは、いちいちベルを鳴らした瞬間の動画を撮って訴えるんですか?そもそも、」 「あなたに何が分かるの!!」 しとしとと静かな雨音の中に、私の声が響いた。 声が響いた後、一瞬だけ全ての音が私から遠ざかる。 雨音さえ静寂の一部に吸い込まれて私の耳には届かない。 怒りがぼこぼこと音を立て、全身の毛穴という毛穴から吹き出しているかのような感覚。 全身が、特に頭が、かっと熱を帯びた。 「私の息子は、点滅信号を渡ろうとして車にはねられた!その日もこんな雨だったわ!私の悲しみが、虚しさが、わからないでしょう!!私は正しいことをして人を救いたいだけなの!」 今まで私の心の中で雨となって降り続けていた感情が言葉になって溢れ出す。 ああ、自分へ何をしているんだろう。 この少女にこんなことを言ったって、分かるはずがないのにーー。 「…心中、お察しします」 少女はやはり表情を変えないまま私に慰めを口にした。 「いいわ、無理なんてしなくて…分からないのに同情したフリをされても、余計に悲しくなるだけだから…」 「いえ、わかります」 少女は下手な演技で私を慰めようとしてくれているのか? 本来それは嬉しいはずなのに、私は何故か、今迄の悲しみが軽くあしらわれたように感じて、怒りがごぽりと音を立てた。 あなたなんかに、私の悲しみが軽んじられてたまるものですか!! そう思い、私がキッと少女を睨み付ける。 が、少女は怯むことなく、口を開いた。 「私は、今まで、大切な人を二人亡くしました。一人はかわいがって頂いていた親戚のおばさん。もう一人はお世話になっていて、家族ぐるみで仲良くさせていただいていた親友の親御さんです。その方はご病気で亡くなられました。ありがとうございましたと言うこともできずに」 言葉を失う。 相変わらず少女は無表情だったがその瞳には確かに悲しい色がうつっていた。 「本当にお世話になっていました。幼稚園の頃から。今でもその悲しみを思い出して寂しくなります。」 少女は続ける。 「でも、その人はとってもいい人でしたから、今はきっと天国で楽しく暮らしながら親友はもちろん私も見守ってくれています。 人が亡くなった悲しみは、人からの慰めの言葉一言二言で癒えるものではないことは、分かります。 私は感情を表情や声などにあらわすことが苦手なので、余計に私の慰めなんかで悲しみが晴れることなんてないと思います。 でも、言わせてください。 あなたがそうやっていつまでも過去にとらわれていては、息子さんも悲しまれますよ、きっと。 立派に生きて、自分を見ている息子さんに土産話をたくさんつくって、十分に生きて人間の寿命が来たらその土産話を息子さんに話して差し上げるんです。 その方がきっと、息子さんも喜ばれますよ」 少女の丁寧に選ばれた言葉で不器用ながらに紡がれる言葉が、雨降りなのに乾いた私の心に穏やかに潤す。 止んたことのない心の雨が、熱くなって私の目から次々とこぼれ落ちた。 「申し訳ありませんが、そろそろ私は行かないと。それでは」 少女は私にぺこりと頭を下げ、そして早足で歩き出した。 私はその背中に向けて、心の中でありがとう、と呟いた。 今、絶え間なく降り続けていた雨が止み、一年ぶりに、心に太陽の眩しい光が差し込んだ。
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