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─deux─
「じゅ、十年前ですか……」
と言われても私当時は大学生、正直に申し上げて海東文具なる会社も存じ上げていませんでしたからね。それに文具と言えば基本は消耗品、これって案外凄いことなの? うーむ、この時点で社員失格かもって今落ち込んでどうする!
私だって一応持ってるわよ、創設五十周年記念とかで社員全員に一人一本配布された物をね。でも案外滲むし紙の繊維引っ掛かるしインクの取り替え面倒臭いしで結局使っていませんの、おほほ……とは言えない。
「左利き用は右利き用よりも若干膨らんでいるんですっ! それで押し書きにも耐えられるようになっているんだそうですっ!」
何だ私より詳しいじゃない、我が社は新卒よりも中途採用に力を入れてるみたいだから再就職するか? そんだけ万年筆の説明ができりゃ営業職いけんじゃないの? 顔も良いから学校の若手の女性教諭とかにモテそうよあなた。
「そう、お詳しいのねぇ」
あら珍しい、お喋り大好き情報雑多の時雨さんでさえも若干引いてらっしゃるわ。ってか私が全く聞いてないのがいけないのよね、多分。でもその熱量には付いていけませんって! コレって私が悪いワケ? 誰でもいいから『そんなこと無いよ』と慰めて! って誰もいないけど。それよりそろそろ終わってくれない? 万年筆お腹一杯。
「何かすみません、熱く語ってしまいまして。しかし夏絵さんはお優しい方ですね、こんなマニアックなお話を嫌な顔一つせず最後まで聞いてくださってありがとうございます」
知らないところで物凄く感謝されてますが何故に? 私本当に話を聞いてなかっただけなんだけど……とは今更言っちゃ駄目だよね? 時雨さんの顔に泥は塗れない、私は取り敢えずへらっと笑っておきました。
「笑顔も控え目な方なんですね、ところで“浪漫カフェ”のどこを気に入られたのでしょうか?」
えっ! その話題とっくに終わってるんじゃないの? 一頻りあなたの話から現実逃避してて軽く忘れてたわよ。いえ一応説明はできるわよ、伊達に毎朝飲んでないからね。でもその熱量までは真似できませんのであしからず。
「口の中に独特のエグミや酸味が後を引かないので飲み易いんです、個人的な感想ですので合っているかどうかは分かりませんが」
あの、そこまで身を乗り出して聞くようなことですか? その食い気味な感じがちょっと怖いです……ステイ、とにかくステイって思ってたら白井さんが霜田さんのスーツの裾を引っ張って引き戻してくれた、ありがとうございますですが随分と扱いに慣れてらっしゃいますね。
「確かにアレを苦手とする方は多いと思います。しかし本場の味かと言えば全然違うというジレンマもあるんです」
えっ? ここでも話題を掘り下げるってか? ホントただのお見合いの席でこんなマニアックな展開は勘弁してください。私着物だからそろそろこの姿勢苦しいんです。何故だろう? 事務仕事だから座りっぱなしは慣れてるはずなのにとにかく立ちたい! 運動苦手だけど体動かしたいっ! 本場の味とかどうでも良い! ヒアイズジャパン! 美味しけりゃそれでいいじゃない、お陰で経営は順調なんだからノープロブレムでいいじゃない! 研究熱心なのは勤務時間内だけにしてくれないだろうか?
なんて脳内暴走中のところにメール……じゃなくて着信が! マッズ、ケータイの電源切ってなかった。このまま無視しようか、一旦トイレの振りして席を立とうかなんてことを考えているとさすが時雨さん、どうしたの? とナイスフォロー! 隣にいるからバイブ音聞こえてるよね?
「すみません、着物の帯を直したいのですが」
「あらごめんなさい気が利かなくて。どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます」
私はギリギリ丁寧めに会釈してその場を離れる、勿論時雨さんも一緒に。
「ごめんなさい、ケータイ切るの忘れてた」
「構わないわよ、万年筆だけであれだけ喋られると私でも疲れるわ。それより今のうちに通話に出ときなさいな」
そうだ、ケータイ! ってまだ鳴ってるわ、案外しつこいと思って画面をチェックして納得。今や腐れ縁の幼馴染内海有砂だ。
『はろはろ~♪ お見合いはいかがですかぁ?』
相も変わらず緊張感の無い話し方をするのよねこの子は。お見合いの時間もちゃんと教えてるのになぜ今掛けてくる?
「誰?」
「有砂です」
やっぱり……時雨さんは苦笑いを浮かべて店内を見回し始めたらいやがった! 有砂はこっちを向いてニヤニヤしてる。
「いつからそこにいるのっ⁉」
『え~っとぉ、なつが来る前から?』
何故に疑問形? こっちに聞かれても知らんがな。
「何で来てんのよ?」
『う~ん、暇だから?』
いやいや、暇だからで人のお見合い観察されたら堪らんわ! 取り敢えず帰ってはくれまいか。
「冷やかしなら帰ってよぉ」
『何言ってんの? 今度こそは上手くいってほしいという友心じゃないの~。それにこの計画はふゆ発案だからね』
「えっ! ふゆまで来てんのっ?」
十歳下の弟冬樹までもがここに来てるってだけで一貫の終わり(?)だというのにってかその服どうしたんだ? ファッション無頓着のお前が何故ブランド服を着ている?
「長かったね~、万年筆談義」
「……」
最早何も言うまい。
その後のお見合いは何だか監視されているようで落ち着かず、結局何が何だか分からないまま終了した。霜田さんはとにかくマニアックだった、万年筆で一時間、“浪漫カフェ”で更に一時間語れるとか凄過ぎるわなんて思いながら時雨さんの車で帰宅してようやく着物から解放された。
「もう、ちゃんと畳まなきゃダメじゃない」
私は着物を放置して部屋のベッドでグッタリしていると、姉の春香がお菓子と飲み物を持って部屋に入ってきた。ホントお顔綺麗だし女子力高いし気立てもいいから殿方にモテモテなのよねぇ。いやマジで羨ましいわ、しかもこれで男だってんだから世の中余りにも不平等過ぎるっ!
「だって疲れたんだも~ん」
「だからってこの着物レンタルなのよ、最低限畳んで返却するのがマナーってもんでしょうが」
姉は仕事柄着物を着ることがあって扱いが慣れている。私も手伝うことがあるから畳めなくはないけど姉ほど上手くは畳めない。彼女を見ていると自分の中途半端っ振りに訳も無く落ち込むことがある。勿論姉のことは大好きだ、中一の時に両親が飛行機事故で亡くなって以来身を粉にして私たちを養ってくれた。
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