世界樹の神域

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世界樹の神域

ナナワトル師の姿は、五年前と少しも変わらぬように見えた。背が高くて、痩せこけて、ひどく猫背で、つえを持つ手が、いつもかすかに震えていた。 「久しいな、我が弟子よ」 「先生も、その、お変わりなく」  変わっていないはずはない。少年の知っている師の肉体は、もう以前のような形では存在しない。 少年には想像できた。今見ているこの姿は、呪術によって再現されたかりそめのものだ。  師は五年前に通常の生に別れを告げ、永劫神官の一人となった。千年の時を超えても変わらぬ、神々よりも長く生きるとされる、不変の存在に。 「今日、この世界樹(セイバ)のもとに呼び出された訳は、もう知っておったかの」 「世界を、滅びより救うためだと聞いております」 「そうだ、この終わりのない夜を止めるための祝祭が待たれておるのだ」 「海に向かうようにと、私は言われました」 「そうだ。渚を見よ。太陽霊を封じた魂殻が、寄り付いているであろう。見つけ出し、祝祭の場、ティオティワカンの太陽の神殿へともたらすのだ」 「そうすれば、世界は元通りになりますか」  少年は尋ねた。師は厳かに言った。 「元通りになるものなどいつの世にも何一つない。世界は新たに生まれなおすのだ。おぬしのもたらす、言わば、太陽の種子によってな」  不意に、師の首もとが泡立つようにうごめきだした。見る間に卵めいた小さな頭が生えてきた。髪の毛も生えていない、目も鼻もない、ただ口のあたりにだけ穴が開いていて、その部分だけしっかりと歯や舌が生えそろっている。目をそむけたくなる光景だったが、これは別の永劫神官、テスカポリトカ師。不敬な行いはできない。 「神官戦士よ、ジャガーの影はよくなじんだか」おかしいほどに明瞭な声で、化け物じみた頭はしゃべった。 「正直に申し上げまして、まだ実感がわきません」  ジャガーの霊を影に縫い付けられたのは、五日ほど以前のことだ。太陽があのようになってしまったために、正確な日時を測るのは難しいが。 「その力、誰にでも与えられるものではない。心して使え」 「心得ております」 「刻限は限られておる。我らの意思に背く者共もあろう。白い顔の人々も、皆敵と心得ねばならない」 「はい、肝に銘じます」 「ならば、行け、急げ。今日から……汝は、……ジャガーの……戦士――  せりふを最後まで言い終えぬうちに、師の肉体だったものは崩れ始め、一塊の腐肉となって、世界樹の根元に広がった。 ――我が最後の弟子よ、健勝であれ――   空から、そのような声が聞こえた気がした。  少年は、あえて見上げることはしなかった。  そこに何があるのかは知っていた。  夜空を引き裂くように伸び広がる、世界樹の枝の先からぶら下がっている赤黒く汚れた麻の袋。腐肉と腐った血を滴らせるその袋に封じられたものが、永劫神官と呼ばれるものの、千年を生きるとされる肉体なのだ。  もう、普通の意味で生きているものは、数えるほどもいないのだ。  この自分とて、もう、ただの人間とは言えない。  一礼し、師だったものに背を向けて、少年は歩きだした。 世界樹(セイバ)の神域を出た。ジャングルは凍てつく寒さに覆われている。歩くたびにサリサリという音がするのは、踏みつけた霜柱が崩れる音だ。地上にいれば雪はちらちらと舞う程度だが、樹冠には白いものが降り積もっているだろう。  影に縫い付けられたジャガーの力が、暗闇での歩行を助けている。ジャングルの中の様子が、以前よりずっと遠くまで把握できる。力尽きて地面に落ちた鳥が霜に覆われた地表で力なく羽ばたく音も、遠くからはっきりと聞き取ることができる。  急な坂道を登って、尾根筋に出た。雪雲は風に吹きはらわれて星明りに照らされているが、月は見えない。金星が、東の空の低い位置にある。太陽が昇らなくなってから、おそらく、五日以上経過している。  ことの起こりは、四か月前のエスパニア人の襲来であった。  予言された白い顔の人が現れたとの噂は、さらに以前から北方の島々に住む者の間から聞こえていた。巨大な船に乗った人々は最初は友好的であり、世界を創造して東に去った神、白い顔のククルカンが再び現れたのだと捉えた海の民は、彼らを歓迎した。だが、翌年、より巨大な、より多くの船に乗って現れた白い人々は、宮殿に蓄えられた黄金の財宝を求めて、マヤ最大の都チチェン・イツァーを急襲した。火を放たれた都は七昼夜燃え続けて、何もかもが灰燼に帰した。自らはエスパニア人と名乗る白い顔の人々は、神聖王とその一族を滅ぼし財宝を得たが、少しも満足する様子を見せなかった。各地の諸王はそれぞれに軍隊を招集した。数にまさる戦士たちは勇敢に戦ったが、火を噴く鉄の棒と鉄の鎧で武装したエスパニア人たちは強力で、じりじりと敗退を繰り返しながら、月日だけが過ぎていった。殆どすべての都市が破壊され、ジャングルからの遊撃戦に追い込まれても、人々の士気は落ちなかった。  しかし、神官の殆どが命を落とし、すべての祭祀が途絶えていたことに、誰一人気づかずにいたのである。  金星の公転の一周期ごとに行われる、太陽神への生贄の儀式。それは知られている限り一度も欠かすことなく行われていたが、それが本当に女神の命を支えていると、信じていた者はどれだけいただろう。  祭祀の日を過ぎた七日後、太陽は前触れもなく落下した。  光と熱の殆どを失い、巨大な燃える球体にすぎなくなった太陽は、エスパニア人がメキシコ湾と呼ぶ海を赤く染めながら、未だ底に沈んでいるという。  世界の再生の儀式のために、太陽霊の魂殻を回収すること。  それが少年、ジャガーの戦士に課せられた使命であった。
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