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信彦は結局昨日のことを父にも兄たちにも聞くことができなかった。それを知っているのは玄さんだが、玄さんに聞いたところで説明はできないだろうと諦めていた。そこで考えたのが勇気を出して地下の女に直接聞いてみようというものだった。
その晩、家の者が寝静まった頃合いを見て信彦は地下へ侵入した。もう慣れた感がある信彦、難なく地下牢の前まで来た。玄さんのいびきが聞こえるのを確認して小声で声を掛けてみる。
「スイマセン・・・」
サッと振り返る女がいた。床には畳が敷かれ、その上には布団が敷いてあった。部屋の隅に大きめのバケツがあり、蓋が乗せられている。便所なのではと信彦は思った。もう一つバケツがあり柄杓が入っている。それが飲み水なのかも知れない。手拭いがきれいに畳まれて何枚も重ねてある。離れたところに段ボールが置かれ使用済みらしい手拭いが中に入っていた。
「僕は何もしません。この家の者です。お話が分かりますか?」
女はしばらく黙って信彦を凝視している。旅館で着るような浴衣を羽織っていた。そして女は立ち上がると少しだけ信彦に寄った。男の声に聞こえたように綺麗な女性だった。薄暗い中でも整った目鼻立ちが分かる。年齢は同じ歳ほどに見えた。
「どうしてここにいるのですか?」
「・・・・・・」
信彦を見たまま何も発しない女。
「お名前は?」
「・・・・・・」
「きっと怖いでしょうね。本当に僕は何もしません。信じて下さい」
「・・・・・・」
「言葉が分かりますか?」
信彦は玄さんのような知的障害者なのかと思った。それでここに幽閉されていたのかと。しかし少し間を置いて女は頷いた。
「よかった・・・。そうですか・・・」
「いつからここにいるのですか?」
「・・・・・・」
それでも女は話さなかった。
「分かりました・・・。またここに来てもいいですか?」
すると女は頷いた。ほっとして微笑む信彦。
「ありがとうございます。僕は信彦といいます。また来ますね」
ゆっくりとお辞儀をしてその場を離れようとすると、
「ちよ・・・」
と女が声を発した。
「は?」
「ちよ」
一瞬何だか分からなかった信彦。が、直ぐに察した。
「あ、ちよさん? 名前は千代さん?」
すると女は頷いた。信彦は微笑むと、
「じゃあ、遅いので帰ります。お休みなさい、千代さん」
と静かにその場を後にした。
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