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1・月夜
「お父さんは優しい人だった・・・。それは知っている」
父の話だと絵里奈は直ぐに分かっていた。
「そのようね。今、様々な出来事が入って来ている・・・」
眉間にしわを寄せてその思念を噛み締めるように吸収しているスミは、時折驚愕の表情を浮かべる。
そのスミを心配そうに見つめている絵里奈と健也。絵里奈は父との日々を思い出していた。
父信彦は穏やかな男で、絵里奈は父に怒られた記憶は無い。一緒に店の工場でパンを作ったりするのが父との交流の場だった。父は絵里奈にパン屋を継がせようとは思っていなかったようだが、この交流が絵里奈の中にパン作りに対する情熱を静かに根付かせた。
いつも褒めてくれた。そして絵里奈が焦がしたパンでも萎んだパンでもいつも美味しいと言って食べてくれた。絵里奈が大好きだった生クリームをたっぷり挟んだパンをおやつにくれた。そんな父だった。
父信彦は絵里奈が17歳の時に亡くなった。胃癌からの転移。発見された時には手遅れの状態だった。
父が最期に絵里奈に言った言葉があった。
「絵里奈、お父さんがもし死んでも、お仏壇のお人形はそのまま大切に置いていてくれ。お父さんに手を合わす時には、そのお人形にも同じように話し掛けてやってくれよ。そうすれば皆健康に幸せでいられるよ」
絵里奈は最期になるかも知れない言葉がそんなことなのかと不思議に思った。しかしそれが父の願いならば、そうしようと心に誓った。
竹内家の仏壇の手前には絵里奈の物心がついた時から日本人形が置かれていた。
「お人形さんにもののしなさい」
とよく父に言われた。「のの」とは仏壇に手を合わせること。地域によって「なむなむ」や「のんのん」となるが信州では「のの」と言う。
絵里奈の記憶にはこの日本人形にまつわる様々な不思議な出来事が残っている。代表的なものは小学校での運動会。大事なクラス対抗リレーのアンカーに選ばれていた絵里奈は前の晩に仏壇に手を合わせた。
(お人形さん、どうか皆に迷惑を掛けませんように)
結果は絵里奈の活躍で優勝。大喜びで父と母と帰る絵里奈がリュックを開けると、仏壇の日本人形が入っていた。父も母もそんなことはしていないと言う。
「絵里奈がお人形さんを頼ってくれたからだよ」
と父は言った。それからは大事な大会や試験などにはいつも丁寧に人形を包んで一緒に持って行った。結果はそれぞれであったが満足するものであった。一つの願掛けのようなものだと絵里奈は解釈していたが、最初にリュックに入れたのは父だったのではと思っていた。
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