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平日の夜遅く、足取りが浮ついて肩にかけたバッグを握る手もいまいち力が入らないくらいの暗い道を歩く。
疲れすぎて、傘を叩く雨音以外何も頭の中に入ってこない。
駅の明かりはここまで届いてはくれない。
救急車のサイレンが響き、自分には関わりの無いところで起こる出来事が緊張を運んでくる。
ふと足を止めて振り返ると、足下から伸びる一本道の果てで、光る細長い箱がレールの上を滑っていった。
たたたん、とととん。
単調に繰り返される音楽のような金属音が鼓膜の奥を引っ掻いて、その微かな爪痕は更に心臓の奥へと達する。
なんでこんなに疲れてるんだっけ。
たたたん、とととん。
残業のせいだけじゃない。いつからこんなに、冷たくなっていたんだろう。心臓の内側にあったはずの、何かを感じようとする装置が動きを止めて、随分経つ。何かをほしいと思うことも、願うことも、必要がなくなって楽になった。
楽になったのだと、思っていた。
でも、今になって黒いもやが湧き始めてしまった。
たたたん、とととん。
無いはずのレールを走る単調な音が迫ってきて、真横で停まった。
ぷしゅう、と風船から空気の抜けるような音と共に、ドアが半分ずつ左右にスライドする。 おもちゃのような二両編成の電車から漏れる照明に、視界がちかちかした。手をかざすと二段の段差が地面より少し高い位置で、こちらに向かって伸びている。
中から何故かコーヒーの香りが漂ってくる。
パンプスを履いた爪先が痛む。
そう、まず、久しぶりにコーヒーが飲みたい。
じり、と踵に重心を移してアスファルトを踏みにじった瞬間、オレンジ色の照明の中に足を下ろしていた。
箱の中は壁に沿って座席が二列、そのすぐ上を黒い帯のような窓が平行に走る。
等間隔に並んだつり革が一斉に左に揺れて、わたしの身体も同じ方向に傾いた。
座席に腰を下ろすと、かちゃ、と固いものが擦れ合う音と共に、湯気がちらりと鼻先を掠めた。
目の前に差し出されたコーヒーカップをまじまじと見つめる。白くて華奢な取っ手をつまみ、そろいのソーサーを手のひらで支えると、紺色の背広に身を包んだその人は静かに離れていった。
車掌さんのような帽子から覗く茶色のお団子ヘアと、背中のラインで女の人だと何となく認識する。
カップの縁に唇をつけると、コーヒーの湯気が眼鏡を曇らせる。求めていた焦げ茶色の香りと味が、舌と鼻腔を抜けていく。
「次、三崎町南三番地エダ文具店」
スピーカーを通してざらついた低い男性の声が、車内に響いた。
カップを持ったまま窓の外を見ると見覚えのある青い屋根が目に入った。小学生の頃、帰り道によく通った店だった。
そのまま店の前で停まるかと思っていたら、店の入り口が勝手に開いた。
驚いて固まっていると、車両はそのまま店内に入り、すぐ右に曲がる。棚の天辺に色とりどりのペンや鉛筆、クレヨンが立ててあり、横に積まれた画用紙やスケッチブック、授業用のノートやクリアファイルがきちんと兵隊さんのように整列しているのが至近距離で分かった。電車は壁に沿って前進、突き当たりで左に曲がると香り付きのシールやメモ帳などの小物がこちらを向いて並んでいる。
最後にここで買ったものは何だったか。
オレンジ色の照明が、棚にあるものを端から順に照らし出す。黄色や青の花がプリントされたレターセットが目に入った瞬間、ソーサーとカップを握った手が震えて、小さな音を立てた。
電車が止まり、オレンジ色の照明が誰もいない店の奥までを照らす。
ドアが開いても乗り込む人の気配はない。
ドア下のステップを一段降り、レターセットを手に取った。透明なビニールに包まれた封筒と便せんの厚み。ペンはバッグにあるはずだ、と思いながらふと傍らを見ると、一本の万年筆が目に止まる。手を伸ばして空中に書くつもりで握ると、冷たい感触がしっとりと馴染んだ。
「お代は」
「あなたの夜を三分ほど」
「わかりました」
灰色の砂時計がひっくり返される。
レターセットと万年筆を手に、座席へ戻った。
再び湯気の立つコーヒーが運ばれてきた。
さらさらとこぼれ落ちる砂の音を聞きながら、わたしは万年筆を真新しい便せんに走らせていく。
先生。わたしは、
校庭の片隅で、蝉が鳴いている。
夏の終わりは、人を感傷的にさせて、喉元までこみ上げた言葉を飲み込む音が、身体の中で暴れ回る。
筆を置くと同時に、砂もため息のようにこぼれ落ちた。
「次、泉野商店街入り口」
窓の外に、商店街のアーチが見えた。アーチのすぐ横にポストが佇んでいる。
立ち上がって窓を開く。膝立ちになって雨の中、ポストの差し込み口に手を伸ばす。封をした手紙が吸い込まれる瞬間、電車がカーブして身体がよろけた。落ちる、と意味も無く腕が宙を泳いだとき、襟を強く引っ張られた。
「わっ」
後ろに倒れ込み、尻餅をついた。
「窓から手や顔を出すのはおやめください」
生真面目にかつかつと運転席へ歩いていく紺色の後ろ姿に、小さく「すみません」と謝った。
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