2人が本棚に入れています
本棚に追加
夜の商店街はひっそりと海の底に沈んだような静けさで、野菜を並べる露台や雑貨店の看板や、錆びた街灯が音もなく深呼吸しているようだった。
テストで悪い点を取ってしまったとき、家に帰りたくなくて生まれて初めて入った喫茶店で時間をつぶした。
入り口に立てかけられた黒板が照らし出され、白いチョークで描かれたおすすめメニューの文字とイラストが、掠れて今にも消えそうなのが見えた。
殊更にゆっくりと進む車両の窓を開けようとしたとき、横から手が伸びてきて止められた。
「あの」
「窓を開けるのは危険です」
「文字を描き直したいのですが、だめでしょうか」
「あなたの夜を一分いただけるならお停めしましょう」
「わかりました」
頷くと、白色の砂時計がひっくり返された。
ドアが開き、ステップを降りて黒板を手に取る。板の上で転がるチョークを掴み、文字を慎重になぞっていく。
本日のおすすめ モカ モンブラン 700円
なぞり終えると素早く黒板を元の位置に戻そうとして、手が滑った。
「あっ」
チョークがころころと転がっていく。追いかけようとして、腕を掴まれる。
砂の音が途切れた。
「出発の時間です」
「・・・・・・はい」
大人しく手を引かれ、車両内へ戻るとすぐにドアが閉められた。
白いチョークが寂しげに淡い光を放っていた。
その光も見えなくなった頃、好きなアイスを売っていた駄菓子屋の前を通り過ぎる。引退試合を控えた部活のランキング戦で、最後のスマッシュを受け止め損ねてレギュラー落ちした日、腹いせに買ったことを思い出す。
ソーダとバニラの味が交互に舌の上で溶けて消えて、夏は終わった。
商店街の外れより少し手前の狭い裏路地に電車が音もなく滑り込むと、ぽつ、ぽつ、と水滴がぶつかる音が大きくなった。
降り続く雨に濡れた地面がてらてらと光を跳ね返し、電車の窓を伝い落ちる水滴が景色を歪ませる。
雨は、嫌いだ。
あの日も雨が降っていた。
夏の終わり、突如の夕立で学校に足止めを食らったのだ。
校庭が水浸しになるのを眺めながら、急激に下がった気温に肌寒くなったのを覚えている。部活帰りに降り出したお陰で、汗をかいた身体が冷えていく。
そこに、先生が来た。
線の細い、ひょろっとした先生で、いかにも文学青年という感じの、年齢を曖昧にさせる不思議な雰囲気を持った人だった。
先生の書く習字はどの教科書よりも、どのお手本よりも綺麗だった。筆を使って書く文字はこんなに綺麗なのかと目を見張るほど。
手の中のコーヒーの湯気が薄くなる頃、そのアナウンスは響いた。
「次、三崎中学校東門昇降口」
カップをソーサーに戻す。
もしもあの時。
あの言葉を、伝えていたら。
昇降口に咲く一つの青い傘。
「傘ないのか?」
「はい。降ると、思っていなかったので」
「じゃあ、これ使いなさい」
すっと男の人らしい茶色い曲がった取っ手を差し出され、半歩下がった。
「でも、先生は」
「確か職員室に忘れ物の傘が置いてあるから」
恐る恐る傘の柄を掴むと、自分が普段使うものよりずっとどっしりとしていて、なめらかな感触にびっくりする。安物じゃない、高い傘だと思った。
「部活帰りに降られて災難だったな。傘は、職員玄関の傘立てに置いてくれればそれでいいから」
「先生、あの、」
先生の傘を握りしめながら、わたしは自分の声が自分のものでないように感じていた。
「ん、何?」
「わたし、」
喉が干上がる。
引いたはずの汗が滲む。
言うんだ。
言わなきゃ。
息を吸い込もうとしたとき、左手の薬指に光る銀色が目を刺した。
「わたしの、この間の、課題のエッセイ、何でわたしのを選んだんですか。他の子も選ばれてましたけど、皆学年で十番以内とかの子ばっかりで」
頭の中を台風が通り過ぎているみたいだった。
回転させて、引っかき回して、結局元の地点に戻ったきり、力尽きる。
「わたし別に、頭良くないのに」
「頭が良いとか、成績の順位とかで文は決まらないよ」
体は女の人みたいに細くて、ちょっぴり頼りなげな風情なのに、とてもまっすぐで、はっきりとした声だった。
「先生は、戸谷の書いた文がいいな、と思ってエッセイ集に載せたんだ」
わたしはなんと答えたらいいのかわからず、途方に暮れた。
「良い文って、自分じゃ分かりません」
すねたような口調になってしまった。先生は、はは、と息だけで笑って、
「確かに自分ではわからないものかもな。でも先生は、戸谷の文が好きだよ」
そう言うと、それじゃ、気をつけて、とわたしに背を向けて職員室の方へと歩いて行った。
「降りますか」
目を開くと、真っ黒な瞳がこちらを見下ろしていた。
見なくても分かる。薄暗い昇降口が背後に広がっている。
手の中のコーヒーはあとわずかだった。
座席に座ったまま、首を振った。
「いいえ、このままで」
「かしこまりました。次、終点です」
わたしは再び、背もたれに深く座り込んで、目を閉じた。
雨は止まない。
「終点、終点です」
低音のアナウンスが響き、わたしは立ち上がる。
開くドアを見ながら、足は運転席へと向かう。
黒い背広の肩に触れて、そっと前に回り込むと、
「こんばんは」
「こんばんは」
思った通りの姿があった。あの頃のまま、あの頃の笑顔で。
「ありがとうございました」
わたしが頭を下げると、息だけで笑う気配がした。
車両を降りるとき、紺色の背広の彼女が手を差し出してくれた。会釈をして手を乗せようとしたとき、さっと抱きしめられた。すぐに体は離されて、段差を誘導され、地面に降り立つ。
彼女を作るのは謎だろうか。
後悔だろうか。
「またのお越しをお待ちしております」
会釈を返す。目深に被った帽子の奥の相貌は、夜に紛れて、でもとても優しい微笑みを浮かべていた。
気がつくと、帰宅途中の電車の中だった。吊革につかまったままゆらゆらと眠っていたらしい。
通過した駅を確認すると、最寄り駅の到着まではもう少しかかるようだ。
駅に着いて、降りたのではなかったか。
窓の外を見ると、雨は変わらず降り続いている。
それは砂時計がこぼれ落ちる音と、似ているような気がした。
数日後、帰宅時にポストを開けると黄色と青の花束が入っていた。
差出人は不明。
少し考えて、ああ、と思わず笑みがこぼれた。
小さな太陽と、小さな水滴を思わせるささやかなブーケ。
「なるほどね」
たたたん、とととん。
背後を、電車が通過する音が通り過ぎていったのは気のせいだろうか。
終わり
最初のコメントを投稿しよう!