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記憶
独居房で僕はカネミツの言った事を思いだしていた。僕はカネミツを殴った所為で独居房に入れられた。ここでは、暴力は一切禁止されている。僕は黒い石の床に触れる。冷たくて固い。こんな冷たい場所はあるんだと思った。ここは極寒の地だった。
『正常ってなんだ』『異常ってなんだ』『境界線はあるのか』カネミツの声が耳奥で鳴っていて、僕は首を振る。だが、その纏わりつく声は消えなかった。
『ショパンのバラードは始まったばかりだ』僕の思い出したくない記憶がかたりと音を立てて錠が外れた。僕の足先には感覚がもうない。サユリが僕の目の前で微笑んでいた。僕は、サユリと声の出ない唇で呼んでいた。
◆
タナカは筋肉トレーニングを終え、寒い空気の中で肌から白い湯気が立っていた。
タナカは「お前。好きな人はいるのか?」と言った。タナカは毎日のトレーニングを欠かさず、引き締まった体をしている。腹筋は割れ、大胸筋は盛り上がっていて、一見、掏摸には見えない。
僕は、じっとタナカを見つめる。タナカは、僕の眼を見て、何を思ったか、
「いや。いい。すまん」
と言う。僕はタナカの言葉を考え、口を開いた。唇は寒さの為にかさつき、口を開いた瞬間に割れて、血が滲んだ。鉄分の味が口の中に拡がる。
「僕には婚約者がいた」タナカはじっと僕の方を見つめる。肝の据わっているタナカは僕から視線を逸らさない。
「もう亡くなってしまったが」
「すまん。いらんこと聞いたな」
タナカは右手で頭を擦るように掻いた。
「いや。いい。いつかは思い出さないといけないと思っていたから」
タナカはじっと僕の言葉を考え、口を開く。
「変な言い方だな。思い出さないと?」
「ああ。婚約者が死んだ時の記憶がないんだ」
「ない?」
タナカは眉を顰め、不思議そうな顔をする。
「ああ。ない。気付くと、僕の両手にはびっしりと婚約者の血がこびりついていた」
僕は一呼吸置く。溜息を付くと、白い空気に靄が立つ。
「お前が殺したのか?」
タナカは僕の眼をじっと見つめる。僕の言葉を受け止めてやろうという覚悟を感じる。
「いや。分からない。記憶がないんだ」
「記憶を抑圧しているのか?」タナカは頭の中で推論を回している。
「わからん。僕は殺していないと今でも思っている」
頭が痛む。タナカはそこで話を止める。すっと房の中に漂っていた緊張した空気が緩む。窓から空気が入ってきて、僕は溜息をもう一度ついた。
「やめよう。俺はカウンセラーではない」
「ああ。分かっている」
そして、タナカはごろりとベッドに転がって仰向けになった。
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