ノクターン

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ノクターン

放尿が終わると、深夜の二時の、海より深い静寂が戻ってきた。暗い夜だ。静かで暗い夜は、僕の肌を何度も針で差すように痛みを感じさせる。タナカが一つ大きな鼾をかいて、また深く寝入った。僕はクッションの効いていないベッドに潜り込むと、肩まで厚い毛布をたくし上げた。寒い。此処の冬は特に寒かった。街から離れた僻地で、海沿いにあるこの場所は、どうしても寒さを防げないで、毎年、老いた囚人が何人か死んだ。僕は遠い場所にいる。距離ではない。遥か彼方の日常から遠い場所にあって、何日も、いやもしかして死ぬまで、僕は此処を出られないかもしれない。僕の死体が此処を運び出され、海に放り投げられる。僕の体を魚が僕の皮膚をついばみ、肉は削りとられ、残った骨が深海に沈んでいく。そんな想像をした。僕はゆっくりと目を閉じる。ショパンのノクターン一番が鳴るはずのない耳奥で微かに聞こえていた。 ◆ 鍬を振り上げ土に向かって降ろす。何センチか土を削りとった感触が手に残ったが、僕が実際に土に手を触れると、土はまだそんなに削れていなかった。僕は一つ溜息を付き、僕は鍬をまた土に向かって振り降ろす。 「なあ。そんな無駄な事やめろよ」 嗄れた声は僕の心を苛立たせる。吐き気がして胃液が口から出そうだ。また鍬を上げる。 「此処では、草木が育たない。そんなこと常識だろう? 1足す1は2だ。そうじゃないか?」 カネミツは喉奥で笑う。背後にいるカネミツの方を見ると、カネミツは赤く錆びた鉄製の螺旋階段に座って、細く伸びた剥き出しの足を投げ出していた。 「漸くこちらを向いたな」 カネミツは笑っているが、垂れ目の目元は笑っていない。朝の光がカネミツの痣を赤く燃えさせていた。 「此処では、草木も育たない。土は凍てついているし、痩せてもいる。海風が畑に塩害も起こす。何故、そんな無駄な事をする? 人間は効率的に生きる動物だろう? 子供だって知っている。無駄な足掻きはさっさと止めろよ」 「ほっとけ」 僕はカネミツに言葉を放り投げると、カネミツはくくと喉を鳴らし笑う。右手で赤い痣を触り、 「まあ、お前がやりたければやればいいさ」と言った。 僕はカネミツから目を逸らし、地面に落ちた鍬を手に取る。そして柄を持って、また鍬を振り上げる。肩甲骨や胸筋が痛い。ここ数日、この動作を繰り返ししている所為で、筋肉がひきつり、痛みを伴っている。痛みを感じたまま、僕は鍬を振り上げ、筋肉を引き絞り、地面に叩きつける。がりっと音がして土が削れる。振り向かなくても、カネミツがにやにやと笑いながら、こちらを見ているのが分かった。
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