欲しいもの

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欲しいもの

鍬を天に向かって、振り上げる。背中の筋肉が鍛えられてきたのだろうか、鍬が軽く感じてきた。僕は腕を引き絞って、固い地面に向かって鍬を叩きつける。叩きつけた土の反動で手が痺れる。ざくっと音を立てて、冬の寒さで凍てついた地面が少し削りとられる。僕は何回もそれを繰り返した。汗がじわりと額に伝い、背中がシャツに張り付く。一つ浜風が吹いて、シャツの袖を捲り上げた腕に鳥肌が立つ。 「なあ。お前もわからない奴だな」 またカネミツがいる。 「俺にはわからんよ。ここで何が育つ? 何もない。これ以上、どこにもいけない。ただ、人生の残りの時間をここで過ごす。刑期も何年かわからない。ただ、「死」を待つのみだ。そこにどんな希望がある? 土を耕すことが希望か?」 カネミツはくくと笑う。僕はその言葉を無視して鍬を振り上げる。そして、振り下ろす。地面に触り、からからに乾いた土を手で掬い、感触を確かめ握りしめる。 「俺は放火が好きでな。いろんな家を焼いたよ。60坪の家や、長屋、新しい家、古い家。あらゆる家を焼いた。火の粉が夜空に舞うんだ。火の粉の蝶が一斉に飛ぶ。皆が必死に消火活動をする中で、俺は癒されていくんだ。ああ。また、焼いたってな。俺が焼いたことで、死んだ奴もいる。俺は知らん。ただ、俺は業火で焼かれる家から放たれる蝶を見たかっただけだ」 鍬を地面に降ろし、背後にいるカネミツを見ると、幸せそうにピアノを弾く真似をしている。音楽の佳境に入ってきたのか、指の速弾きが行われる。 「音がするんだ。家を焼いている最中、音がする。モーツアルトのレクイエムを聞いたことがあるか? 天井から降り注ぐ天使の歌声。赦しを求める煉獄の炎に焼かれる地上の人々。そうさ、俺達さ」 カネミツは目を閉じ、僕には見えない、ピアノをそらで弾いている。僕は、カネミツの顔を見つつ鍬を地面に放り投げ、集団房に向かった。 「お前は俺の事を無視できない」 カネミツは遠くから叫び、くくと笑った。それを聞いて、僕は一発、入り口の鉄製のドアを拳で殴った。鉄の甲高い音が響いた。                    ◆ 欲しいものを書いた紙を、僕はドアの下からその紙を差し出す。 月光が窓から差し込むのを見ながら、サユリを思い出していた。サユリは身寄りがなかった。高校時代に親が乗っていた自動車が大きなトラックに追突され、両親と妹を一瞬で亡くした。それからサユリは一人で生きてきた。大学には奨学金で通い、大学卒業後、ゼネコンの会社の一般職に就いた。そんな時、僕等は出会った。お互いの友達が知り合いで、サユリを紹介された。いい子だと聞いていたが、会ってみると本当にいい子だった。お互い、人見知りだった所為か、初めてのデートはあまり話しが弾まなかったが、そのダブルデートの直後、サユリからまた会いたいと伝えられた。僕も、また会いたいと思っていた。 そこでサユリの追憶は蟻によって遮られる。蟻は二匹になっていた。二匹揃って、床を這い回っていたと思うと、別々に分かれ、餌を探していた。床の冷たさが足に伝わってきて、痛い。薄い服は寒さをしのげず、体の奥底から震えが起こる。独居房の端に置いてある黄色の毛布を取って足元にひく。ここでは時間が分からない。今、19時なのか、果たして、真夜中の2時なのかすらわからない。窓から月が見えたり、太陽が昇ったりするのを見て、僕は大体の時間を把握した。二匹の黒い蟻は、また合流して、助け合っているように見えた。 二回目のデートの時、カフェで紅茶を飲みながら、サユリは自分の身寄りが無い事や、一人で生きてきた過去を話してくれた。 「あまり話さないんだけどね。多分、友達も知らないと思う」 僕は驚いて、 「なんで僕にその事を?」 と聞くと、サユリは微笑んだ。小さな顔はとび抜けて美人ではなく、地味な印象すら与えたが、僕は可愛いと思っていた。 「なんでだろう? あなたは会った時から信頼できると思ったから」 サユリは僕の目をじっと見つめながら言った。そして、目の前の紅茶が入ったティーカップに手を伸ばし、音を立てずに飲んだ。その時、僕は、この人と結婚すると思った。 「なあ。結婚を前提にして付き合ってくれないか」 サユリは笑って、 「早いわね。でもね、私も同じことを今考えていたの」 と言った。僕は運命なんてあるわけがないと思っていたけれど、本当に「運命」があるとその時思った。その直後、まだ入社したての僕はお金がないまま、サユリと同棲を始めた。 気づくと朝だった。朝日が上ってきて蒼い空が白々と明けてくる。何処からか雀の声が聞こえてきた。ドアを見ると、ドアの下に置いておいた紙はいつの間にか無くなっていた。 ◆
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