境界線

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境界線

◆ 「なあ、誰をコロしたんだ」 僕が鍬を振り上げ、地面に向かって一気に振り下ろした時だった。カネミツは大きな嗄れ声で言った。がさがさと空気を震わせながら、僕の耳奥に纏わりつく。僕は土に刺さった鍬をもう一回、天に向かって振り上げる。振り上げた瞬間、背筋が盛り上がるのが分かる。鍬の重みを肩に感じながら、もう一回振り下ろそうとした瞬間だった。鍬が突然重みを増し、動かなくなった。僕は鍬の先を見ると、カネミツが鍬の柄の中ほどを握っていた。 「なあ。無視はいけないと思うんだ」 カネミツはいつもの人を馬鹿にした顔はしていなかった。目がどろんと濁っていて、感情が見えない。楽しそうに話すカネミツはもういない。 「お前は俺を舐めている」 カネミツの目の焦点が合ってはおらず、何処を向いているか分からなくて、僕を見ていない。カネミツの肩はゆらりゆらりと揺れている。 「お前は誰かを刺した。間違いないね。俺くらいになると、大体わかるんだ。こいつは善人そうに見えても、なにかやらかしてきたんだろうなとか。お前は、何かをしてきた。俺はその話を聞きいたいね」 カネミツは横に揺れている。僕は、 「ほっとけと言っただろう」 と鍬を離した。カネミツは鍬をまだ握っている。 「いや。お前の善人面を剥がしたいんだよ。俺は気に食わないね。お前は罪人なんだよ。ここで『死』を待つ身なんだよ。俺がその事を感じさせてやる。俺はコロしたんだっていう事を」 僕は怒りで頭に血が上っていて、頭の中は真っ白だった。カネミツが僕の事を見ているかさえ分からない、どろんと淀んだ目をする。赤黒い痣のついた顔はもうそのピエロの顔を脱ぎ捨てていた。僕はカネミツのとろんとした何を見ているのか分からない眼を見詰め、カネミツの囚人の服の胸倉を掴み、僕の方へと引っ張りあげる。 「そうそう。それだよ。感情だよ。嬉しいね。その顔が見たかったんだよ。善人の顔をして、俺は何もやっていないと感じているその顔を、その仮面を外したかったんだ。さあ、俺に何をやる? やってみろよ。自分が罪人っていうことを自覚しろ。俺とお前は同じ穴のムジナなんだよ。誰だって、罪を大なり小なり抱えている」 と言って、カネミツは笑い出した。カネミツの目はまだ濁っていて、赤黒い痣が奇妙に生きた虫のように蠢く。僕の背中に汗が滴り落ちていく。 「さあ、何がしたい? 俺をコロすか?」 僕はその言葉を聞いて、右拳を固めて、思い切りカネミツの左頬を殴った。カネミツは2メートル吹っ飛んだ。木の鍬がカネミツの手から離れて、遠くに転がっていく。冬の空気が一気に頭に流れ込んでくる。カネミツは仰向けに倒れこむ。 「ははは。そうそう。それだよ」 カネミツは仰向けに倒れこみなながら、頭だけを上げ、僕の方を見詰めている。その異常な態勢からカネミツの唇から赤い血が流れていて、赤黒い顔の痣が奇妙なほどに赤さを増していた。目が濁り、唇の端を上げている。 「なあ。俺達は何をしたっていうんだよな。善悪なんか誰にも分かりはしない。曖昧だよ。その辺にいる連中だって、次の日には誰かを刺しているかもしれない。よく異常な事件っていうよな。でも、異常ってなんだ? そもそも正常ってなんだ? 境界線なんてあるのか?」 カネミツは笑い出した。僕の耳に砂を擦り合わせた、気色の悪い、ざらついた声が響く。僕は震えていて、それは怒りなのか、自分の犯した罪の所為なのか、寒さの所為なのかわからなかった。がたがたと震えが体の奥底から湧いてくる。僕は右拳に痛みを持ったまま、カネミツの方へ向かって行った。 ぐいと腕を掴まれる、カネミツへ歩いていく僕の体は止まった。掴まれた方を見ると、白い仮面が僕の肩の上にあった。白い仮面は目の部分だけがくり抜いてあり、三日月の形をしていて、その奥の瞳は見えない。ぐいと左腕も掴まれる。振り向くと、また白い仮面があった。僕がその腕を振り解こうとしても、その力は異常に強く、僕の鍬で鍛えた腕は一ミリも動かさなかった。僕は両腕を掴まれたまま、動けなかった。そして、引き摺るように、カネミツから遠ざけるように連れていかれる。遠くにいるカネミツは大きく笑う。 「ショパンのバラードはいいね。繊細なショパンからは想像できない程の熱情が溢れている」カネミツは首を起こしたまま、腕を天に上げ、ピアノを弾いている。 「まだ、序章さ。これから始まる熱情。また会おう」と言って、首を地面に下した。僕は二人の屈強な仮面の男に両腕を掴まれたまま、土の上を引き摺られていった。 ◆
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