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「待ってろ! 今そっちに行くぞっ! ……ぐっ、ガァァァア!?」
浅瀬に片足を突っ込んだ途端、私は思わず野太い叫び声を上げました。穢らわしい緑色に濁った水は、さながら胃液か猛毒のよう。殺人的な冷たさは風の比ではありません。鉈でズタズタに刻まれるような激痛が走ったかと思えば、一瞬で足先の感覚が消失しました。
「グゥッ……何の……何のこれしキィ!」
けれど肉体が壊死しそうな程度の苦痛で、この歩みを止める事などできなかったのです。私は構う事なくもう片足も水に浸し、大股でズンズンと前進して行きました。足首から脛へ、脛から膝へ、気が飛びそうなのを必死に堪えながら、神さまの元を目指して練り歩いたのです。
「ギイッ! ふ、フグヌッ!? ぁぁぁぁぁ…… く、クソがっ! 歩きじゃここまでが限界か!?」
10歳の小僧の背丈など矮小で当たり前。加えて池の水深は思いの外変化が激しく、底に足が届かない深度に至るまで、そんなに時間は掛かりませんでした。
「ここからは泳いでいかないと……むぅう、身体が重い! それにちっとも進まない! 畜生! 畜生が!」
浅瀬を歩いていた頃はまだマシでした。地上に比べて不安定ながらも、まだ身体をしゃんと保ったまま動く事ができましたから。ところが一度底から足を離し、水流に我が身を預けた途端、それまで以上に重い障害が私を縛ったのです。
いくら早急に行動すべきだったとは言え、一枚も服を脱がずに入水したのは失敗でした。ただでさえ鈍重な水を布が吸い上げるから、まるで鉛の塊でも括り付けられたかのよう。藻掻けど藻搔けど空回るばかりで、状況は悪化の一途を辿りました。
「はあ、はあ……ガボボボッ!? ぺっぺっ! 寒い……キツイ……も、もうこれ以上は……」
何度弱音を吐いた事でしょう。何度悪態を突いた事でしょう。頭上で雪舞う真冬の池を泳ぐなど、人間には過ぎた試練でした。震えは止まらない。息は続かない。凍死するのが早いか、溺死するのが早いか。肉体はとうに悲鳴を上げ、心もポッキリと折れてしまいました。……でも。
「このく……らいで……諦め……て……たまる……もんか! 神さま……は! もっと! 辛いに! 決まってるから!」
私よりもずっと寒さに弱い神さま。彼女がその身に受ける苦しみは、私のそれよりずっと大きいに違いありませんでした。そして彼女をそんな茨の道へと突き動かしたのは、他でもない私だったのです。
私は戻らねばならなかったのです。諦めるのではなく、逃げるのでもなく、一歩戻る必要があったのです。それもたった一人でではなく、大切なひとの手を握ってから。
すれ違いの原因を探らねばならない。何が足りなかったのか知らねばならない。元より退路の存在しない私が、活路を切り開くためにできる事は……
「……やった……掴んだ……掴んだぞぉ!」
この手を伸ばす事だけだったのです。
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