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1章 盗んだ美人-1-
「煤原紺! また忘れてきたのか!?」
授業開始まもなく、教室中に響き渡る声で先生に叱られた。しかもご丁寧にフルネームで呼ばれた。やってきたのに、レポート用紙を忘れた。そう、やったけど忘れたのだ。しかし、そのような言い訳が通用しないのは心得ているので「すみませんでした」と肩を縮めて謝った。
今日は朝から、どうもいけない。調子の狂うことばかりだ。
「わりぃ、紺。妹に汚されてさー」
夏休み前に貸したコミック雑誌がようやく返ってきた。女々しいことを承知で、始業式の日に催促をした。それから一週間後の今日である。
妹さんによる汚れとは、表紙の水濡れ。まぁるい跡があるので、コップとか、ペットボトルとか、缶を置いたのだろう。キンキンに冷えた、ね。
こうなると、何もかも気に入らなくなる。
「煤原君、これお願いっ」
休み時間、クラスの女子に渡されたのは名刺サイズのメモ用紙。そこにつらつら記されているのは携帯番号やアドレス等の個人情報だ。『連絡待っています。お願いします』という一文だけ手書きで、実にか細い字だった。
「……あの、無駄だとおも」
「頼んだからね! はいっ!」
断わる隙間も与えられず、問答無用に押しつけられた。賄賂のつもりか、ファミリーサイズのチョコも握らされた。
気に入らない。
と、こんな具合に午前中が過ぎ、楽しいお昼休みがやってきた。
なのに、極めつけの出来事が起る。
「お、おにぎりじゃ、ない!!」
昼食はいつも屋上で摂る。9月になったとはいえ、陽射しはまだ夏本番で、制服をあっという間に汗で湿らせる。けれど、適度に風がそよいでいるし、何より見晴らしが良い。校庭と街を一望出来るし、海の一部も垣間見える。
それはいい。そこじゃないんだ。
「どうしたの紺?」
おにぎりじゃない、おにぎりがない、と文句を繰り返す俺に、隣に座る友は慣れた調子で訊ねてきた。
俺は二段重ねのお弁当箱を取りだし、そっと蓋を開けた。「ハッ!」と思わず息を吸ったのは、ショックだったから。
「し、秦、秦聞いて!? 俺さ、今日はふりかけのおにぎりが食べたいって言ったの。なのにさ、見てこれっ!」
軽く肩をぶつけながらお弁当箱を見せると、秦は「ふふ」と微笑んだ。
「三色ごはんだね」
優雅に笑う友は、岸本秦という。高校以来の友で、もはや親友と言っても差し支えない仲だと自負している。三年間同じクラスなのだから、これはもう友達になる運命だったと言えよう。
「今日もすごく美味しそうだね」
きゅっと口角を上げて笑う。こんな上品で、爽やかな笑顔が出来る男を俺は他に知らない。優等生という表現がピッタリ当てはまる男だ。
斜めに流した前髪は自然で、艶やか。鋭角的な顎は目元の柔らかさで相殺される。鼻筋はもちろん高い。物語の主人公に相応しいし、童話ならばさしずめ王子様役がぴったりだ。
短気な俺とは違い、秦の精神は常に陽だまりの中にある。物腰の柔らかさと整った容貌に女子が騒ぐのも当然だった。
だから、いつも傍にいる俺は都合の良いメッセンジャ-になる。さっきみたいにね。
「くぅ、さっそくひー兄に文句を言ってやる! 嘘つき嘘つき嘘つき」
スマホをズボンのポケットから取り出すと、問題の相手からメッセージが届いていた。さては言い訳? と思うが違う。更なる仕打ちが待っていた。
口をあんぐりとあけ、スマホを睨み付けて固まる俺。
「ふふ、今度はどうしたの?」
俺は唇をきゅっと結んでから、がっくりと肩を落とす。首もかくんと折った。
「今夜は会社の人と飲むから帰りが遅いって。ご飯は姉ちゃんに頼んだからって」
「ふぅん。平人さん? だよね」
コクン、と頷きながら今夜のリクエストを思い浮かべる。
「親子丼だったのに。おにぎりじゃないし。ひー兄の嘘つき」
俺の不満を察してか、お腹がぐぅぅぅと鳴った。
ふん、お腹空いたし食べよっ。
「いただきますっ」
箸を手に、厚焼き卵から口に運んだ。あぁ甘いっ!
秦の言う「平人さん」こと、ひー兄は向かいに住むご近所さん。俺が幼い頃からお世話になりっぱなしのお兄ちゃんだ。血の繋がりはなくても実の兄同然に慕っている。煤原家にとってなくてはならない存在だ。でも、今は裏切られた気持ちでいっぱい。だって、いつもはリクエスト通りに用意してくれるんだ。
噛み付くようにお弁当を次々胃に落とす。ひじきのハンバーグに、肉じゃが。アスパラガスは苦手なのに、ベーコンを巻いてよく入れられる。切り干し大根の煮物は昨夜の残り物だ。
全部美味しい。ひー兄の料理に文句はないが、文句を言いたい気分ではある。
「朝から機嫌が悪いのは、やっぱり平人さんと何かあったんだ」
のほほんと購買のパンを囓る秦が、鋭い質問を寄越す。咄嗟に「べつに」と見苦しい嘘を吐くとまた笑われた。
秦には何もかもお見通しなのだ。
「紺はほんと、平人さんにべったりだよね」
「そっ、そんなんじゃっ」
ない! と続けたかった。なのに口ごもったのは、手を合わせたくなるほど寛大な笑みを浮かべた秦と、子供のような自分を比べたせい。
「ただ……その、実は、今日。気になる写真を見つけてさ。それが、どうもこう、このへんに引っかかってさ」
箸を握ったまま胸の辺りに手を当てた。「うんうん」と相槌を打つ秦に促され、不機嫌の理由をおさらいしながら明かした。
今朝のことである。
ひー兄の背広から財布をとり、お札入れに妙なものを見つけた。
写真である。
ここで補足すると、断じてお金を抜き取ろうとしたわけではない。小遣いをもらおうと声を掛けたら、家事で忙しいひー兄が「財布からもってけ」と言うのだ。
というのも、俺が高校へ上がるやいなや母は宣言した。「もう我慢できない! パパのとこ行ってくる!」と、単身赴任をしている父の元へ飛んで行った。ちなみに海外。そして、俺には社会人の姉がいる。にも関わらず、両親はひー兄に煤原家の生活費を管理する通帳を託した。これは、ひー兄が両親に絶大な信頼を得ている証で、同時に血の繋がった娘を信用していないという意味もある。
「写真ってどんな?」
秦は食べ終わったパンの袋を丁寧に畳み、今度はストレートティーの紙パックを飲み始めた。
俺はこの期に及んでどう切り出そうか、と考えあぐねた。
「女の人の写真とか? あ、超能力じゃないからね」
とはいえ、俺の心を読んだかと疑いたくなるタイミング。こうなっては言うほかないので大人しく頷いた。
「しかもついさ。なんか、咄嗟にやっちゃって」
何を? と問われる前にズボンのポケットから元凶を取り出した。
「え、持って来ちゃったの? いいの?」
いいわけない。そんなこと百も承知だ。だから咄嗟に、ついって言った。
「ええと、綺麗な人だね」
カラーリングとは無縁の黒髪美人だった。肌の白さが際立っている。目元はやや垂れ気味で、口元の泣き黒子が大人の色香を漂わせた。性格を反映しているかはさておき、まっすぐなロングヘアは写真を通しても艶々と光っている。やっぱり、心根が表れているのかも知れない。桃色のブラウスとパールのピアスで女子力を倍増させたその美人を盗み、ポケットの中で皺をいれてしまった。
「誰の写真か訊けばいいのに」
そのもっともな指摘に確かに? と思うが、すぐに頭の中は謎で満たされる。
なぜそんな簡単な質問が出来なかったのか。秦の言うとおりただ素直に「コレ誰?」と聞けば、ひー兄は教えてくれただろう。
だけど、なんか、嫌だった。
ポケットに突っ込んだ美人。朝から苛々する自分。俺の知らないひー兄。
「お見合い写真だったりして」
え? みあい?
「だって彼女って訳じゃないと思うよ」
なんで?
「平人さんのタイプじゃないと思うから」
ハッ、と俺は唇に拳を当てた。それから目をぱちぱちさせる。
「いや、紺の考えは大体分かるからね。あってる?」
盛大に頷きながら、俺は改めて秦との絆をひしひしと感じた。
恐れ入ったよ。声を出さずに会話が成り立つんだから、すごい。
でも、ひー兄に関するあれこれは俺のが絶対に詳しいぞ。だから、つい試すようなことをした。
「へぇ-。ひー兄のタイプって?」
はっずれー、と言ってやる気満々だった。
なぜなら、ひー兄のタイプはまさにこの、桜の精を体現したかのような清楚で古風な女性だから。一緒に映画やドラマを観るので、ある程度予想が出来る。
写真の美女は、ひー兄がこれまで「かわいいな」と褒めた女優の特徴に当てはまるのだ。
しかし、おかしい。
秦の人差し指はなぜか、まっすぐ俺に向いている。鼻先に触れそうな距離で、その指先を追って俺の目はきっと真ん中に寄っているだろう。
「紺みたいのがタイプだよ。きっとね。小さな鼻でしょ、猫っぽいくりっとした目。もちもちした頬に、まあるい顔立ち。可愛いよね。肌も白くて綺麗だし、髪もサラサラ。一番好きなのは、ちょっと生意気そうに尖った唇」
パーツをなぞるように移動する指を、危うく食べそうになった。
「なっ……、なっ」
「つまり」
意味ありげにここで言葉を切ると、眩しい笑顔で答えを告げた。
「瑠璃さんってこと」
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