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恋人たちの何とやらと言うが、水族館は家族連れが多い。もちろんカップルもいる。周囲の目には、俺と紺は家族のように見えるだろう。なんせ。
「ひー兄早くっ、こっちこっち!」
俺の可愛い恋人は、館内はお静かに、という注意書きが目に入らない。三度の注意でようやく察してくれた。浮かれるにもほどがあるぞ、と言いたい所だが、そこがまた可愛いのだから仕方ない。
紺はフロアマップを片手に、意気揚々と進む。と思えばじっと立ち止まり、また通路を戻ったりと奔放に動く。
やはり、紺にはコートではなくダウンのベストで正解だったな。寒さより動きやすさを優先した方がいいと思ったのだ。セーターにシャツを重ね着させているし、館内にいる限りは問題ないだろう。屋外に出る時は俺のマフラーを貸せばいい。
少し残念に思うのは、大人しく隣を歩いてくれないことだった。でもふとした時、笑顔を向けられるとどうでもよくなる。
ふっ、好きに動けばいい。
思えば昔からそうだった。紺のペースに合わせるのは俺の役目。瑠璃はあの通り他人に合わせる女ではないし、仲の良い両親はよく二人だけの世界を作ってしまう。そして紺はのんびりしているので迷子になりやすい。だからいつも目が離せなかった。
そんな思い出に浸っていたら、コートのポケットで振動を感じた。
水中ガラスの前で呆ける紺を見て、スマホをチェックする。
<昨夜は充電を切らせちゃったって? 珍しいね、しっかり者の君でもそんなお茶目な失敗をするんだ>
不自然だが、ぎりぎり自然な理由を作って紺の親父さんにメールをした。というのも今朝、出かける前に恐る恐るスマホを確認したら案の定、矢のようなメールが入っていた。最初の数件は他愛もない一日の出来事を報告され、次第に露骨な内容になっていった。
つまり、「節度」と「約束」についての確認である。
<私とママはね、ご近所さんとパーティを開くんだよ>
<今日はデートなんだろう?>
<受験勉強で大変だろうから、息抜きも必要だね>
<あぁそうだ、プレゼントを贈ったよ。だからというわけではないけど、あまり遅くならないうちに帰るといいね>
と、このような世間話を挟んでから。
<紺はまだまだ子供だから>
唐突にここを、強調してくるのだ。
たちの悪い詐欺に出くわした気分……、いや、罰当たりなことを言うな。反対されず、応援してくれてるじゃないか。こんなに有難いことはない。ならばここは一つ、春まで耐えてみせるのが男だろう。
昨夜の行為が俺の中でセーフとするなら、いくらでも楽しみようは……。
「ひー兄、あっちベルーガ! 行こ!」
「あ、あぁ」
親父さんへの返事を打ちかけていた所で、紺に腕を引かれた。
「てゆーか誰? デート中なのにスマホなんか弄ってさ」
つんと口を尖らせた紺は、俺のスマホを覗き込もうと身体をぶつけてきた。直後「ぁっ」と小さな悲鳴を上げて、俺から距離を取る。
「紺?」
青い光を浴びて、いつもより真っ白な肌が仄かに色づくのを見た。まさか、コイツでも人目を気にするんだろうか。所構わず「ひー兄、ひー兄」と呼ぶくせに?
紺のことなら何だって分かると思っていた。けれど、「恋人」になった紺はまだまだ謎に満ちている。これからどんな姿を見せてくれるのかと思えば、胸が密かに打ち震えた。
「うぅ、乳首が痛い」
「……は?」
聞き捨てならない台詞を吐くと、紺は胸の辺りを掴んでセーターをぐいーっと引っ張った。
「ば、馬鹿野郎っ」
「ぁいた」
ハッ!
卑猥な単語に動揺し、思わず紺の頭を叩いていた。いや、もちろん軽くだ、軽く。けれどもそんなのはフォローにならず、紺は瞬く速さで拗ねた。
「わ、悪い! 悪かった、紺」
「……ひー兄のせいなのに」
うっ。
「そ、そうだな? 俺のせいだ、全部俺が悪い」
むすっと膨れる紺の手を引いて、人目を避けるようにそそくさと陰へ移動した。従業員専用とおぼしき通路の角に入り、紺を壁へ立たせた。遠目には、仲睦まじいカップルがいちゃついているように見えるだろう。
「なんで打たれんの? デートなのにさ。意味分かんない」
「……すまん。あー、機嫌直してくれ、頼む」
乳首のせいだとは言えまい。
「俺といるのにスマホ見てるし」
「……すまん」
親父さんだ、とも言えない。なぜなら秘密の約束は、決して息子には知られたくない、という親父さんの真意が漂っている。口を滑らせるわけにはいかない。これは男同士の信用問題なんだ。
「電源切ってよ。俺はとっくに切ってるよ? だってさ、あの二人本っ当最悪なんだ」
紺の意識が秦と瑠璃に向き始めた。なんでも暇な変人は、今は日本海? そろそろ北極? などとガイド気取りで見どころの説明をしてくるらしい。スタッフか、と突っ込みたいのを堪え、今だけは役に立ったと褒めてやる。
「全く、ろくでもない奴らだ。いいか紺、あの二人が言うことは真に受けるな。お前が信じていいのは俺だけなんだぞ?」
「うん、分かってるよ」
一分足らずで俺への怒りを忘れ、素直に頷く紺。無性に抱きしめたくなったが、ここは我慢して頭を撫でるに留めた。すると紺は、恥ずかしそうにはにかみ、俺のことをちらちら見上げてきた。
「なんだ、どうした?」
その愛らしい仕草に目を細め、優しく問いかけた。
「あ、あのね、えっとさ。ちょっとだけ変なこと言っていい? ほんとーに、変だよ?」
迷いながら言うくせに、俺の手を取ってぎゅっと握りしめてきた。唇に笑みをのせることで、続きを促した。
「俺さ、女の子の格好しようかな?」
は?
「今日はもう無理だけどさ、ほら、俺嫌だけど、未だに時々間違えられるし、スカートとか? 穿いただけで誤魔化せると思うんだよね」
繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら「どう思う?」と意見を求められ、俺は静かに混乱してく。ただし、脳内では色々なスカートを穿いた紺の姿が躍る。チェック柄、花柄、プリーツもいいが、ふんわりシフォンもいい。が、大胆に丈の短いデニムパンツもいいんじゃないか。
「お前はそういう……、格好がしたかったのか?」
まさかこれは、女の子になりたかったという切実なあれか。と、思ったが「そんなわけないじゃん!」と即座に否定されてホッと息を吐いた。
「だってさ、そうしたらもっとひー兄とくっついて歩けるじゃん。出掛ける時はその方が気楽かもって……、ちょっと思っただけ。ちょっとだけ!」
その説明でようやく合点がいった。そして思うのは、俺と紺の気持ちが通い合っている、という紛れもない事実。なにもイルカに100%夢中になってるわけじゃなかった。きっと、こうして少しずつ恋人らしくなっていくんだろう。だとしたら小さな発見と感動の連続だ。
「それはまぁ……、いい提案だな?」
「ほんと?」
何より、俺の為にスカートを穿こうだなんて考えだすのが可愛い。
「あぁ、でもな、お前ならちょっと工夫するだけで平気だ。来い」
「え? どこ行くの? ベルーガあっち」
「ベルーガはあとで行くから、まずは売店」
「え、売店?」
紺の手を引いたまま天井の案内板を頼りに売店を見つけ出す。そこで求めた物は、道行くカップルや子供たちが被るイルカの帽子。最も、帽子というより着ぐるみに近い。頭の天辺にイルカの顔が乗っかり、耳を通って顎でボタンを留める仕様になっていた。ま、ほとんどの人は、実際留めずに垂らしている。
紺にはピンクのイルカがいいだろう。ようは、女の子らしい色を身に付ければスカートなど穿かずともいける。まぁ、機会があれば見たいは見たいが。
薄暗かった館内とは別に、売店は目に刺激的な明るさだった。その中で、ワゴンに盛られた青とピンクの帽子を見つけ、紺に持たせた。
「えー、これ被るの? うそぉ、さすがに嫌だよ」
予想できた反応に、俺は冷静に諭した。スカートとどっちがマシかよく考えてみろと。紺にピンクは似合うし、帽子のインパクトが強すぎて顔なんか見られないし、堂々と手を繋いで歩ける。とにかく、「被る」か「穿くか」を強調し、リアルに想像させた。
単純かつ素直な紺は呻りながらも帽子を手に、おずおずと被って見せた。耳あての部分をぐいぐい引っ張って、眉毛が隠れるほど深くしてから「変じゃない?」と俺の反応を心配する。
「可愛い」
途端、紺の目が大きく見開き、頬が甘い果実のように色づく。
「可愛いぞ、紺」
その何とも間抜けで愛らしい姿にはどこか、神聖な、つまり尊さがあった。つい重ねて「可愛い」と繰り返し言ってしまう。頭を撫でようとしたが、生憎そこにはピンクのイルカがいる。構わずよしよししていると、紺は観念したように「じゃぁ……、いいよ」と納得してくれた。
気が変わっては大変だ。すぐに会計を済ませ、タグは切ってもらった。店員さんから隠れるように後ろで待つ紺を連れ出し、改めてイルカを被らせた。
あぁ、たまらん。
ピンクのイルカになった紺は、先程と同様に限界まで深く被った。気恥ずかしいのだろう。耳あてを掴んだまま俯いてしまっている。
「ほら、ベルーガんとこ行くぞ」
紺の手をとって、来た道を戻っていく。進むほどに紺からぎくしゃくとした動きはとれていき、繋がった手に力がこもるのが分かった。
「ひー兄ってさぁ」
「ん? なんだ」
緊張が解けてきた紺が、俺の手を抱くようにしてよりくっ付いてきた。紺は甘え方が本当に上手い。しかし、もごもご言っているので聞き取れず、腰を落としてもう一度聞き返す。
「昨日からさ、俺のこと何度も可愛いって言うよね」
「……あ?」
紺は俺の意表を突くのも上手かった。つまり、どういうことだろう。
「えーと、あれか。嫌だったか?」
いくらデートの為に女の格好をしようか、なんて言ってくれる紺でも、心は男の子。可愛い可愛いと連発され、不快に感じていたのかもしれない。
これまで心の中でのみ愛でていたが、調子にのって言いすぎた。
「悪い、これからは気をつける」
「え? あ、違うって! えと、人に言われるのは嫌だけど、ひー兄なら別にいいよ」
「……そ、そうか?」
「うん。だってさ、褒められてるみたい?」
事実として褒めている。
「好きって言われてるみたいだし」
同義語である。
「ひー兄、俺のことめちゃくちゃ好きだもんね?」
その小生意気な問いに、内心焦った。こんな公衆の面前で煽られてたまるか。親父さんのメールを思い出し、体内の温度を冷却させる。
「お前もだろ?」
「うん! へへ」
満足そうに頷くと、紺は猫のように俺の腕に顔をくっつけてきた。正確にはイルカの頭がぶつかっているだけなのだが。
「これ恥ずかしいけどいいね」
「……だろう?」
「大切にするね」
?
「クリスマスプレゼントでしょ?」
イルカがいっぱいになっちゃった、とか。被って外へは出られないけど、家の中で大切にするね。と、紺がとんでもない勘違いを始めた。
「ま、待て待て。なわけねーだろ? そんなふざけた帽子がプレゼントのわけあるか」
「え、そう、なの?」
大体、それではあの抱き枕に負ける。寝る度に抱かれるイルカと、部屋に飾られて終わりのイルカでは話にならない。
「いいか、あんなイルカよりもっといいものプレゼントしてやる」
悔しさのあまり堂々と言ってしまったが、実はまだ何の案もない。紺の視線を痛いほど浴びつつ、胸を張り続けた。
さて、困ったな。
しかしその後、ベルーガのおかげである閃きを得た。
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