終章 たいらのなみだ-2-

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 恋人たちの何とやらと言うが、水族館は家族連れが多い。もちろんカップルもいる。周囲の目には、俺と紺は家族のように見えるだろう。なんせ。 「ひー兄早くっ、こっちこっち!」  俺の可愛い恋人は、館内はお静かに、という注意書きが目に入らない。三度の注意でようやく察してくれた。浮かれるにもほどがあるぞ、と言いたい所だが、そこがまた可愛いのだから仕方ない。  紺はフロアマップを片手に、意気揚々と進む。と思えばじっと立ち止まり、また通路を戻ったりと奔放に動く。  やはり、紺にはコートではなくダウンのベストで正解だったな。寒さより動きやすさを優先した方がいいと思ったのだ。セーターにシャツを重ね着させているし、館内にいる限りは問題ないだろう。屋外に出る時は俺のマフラーを貸せばいい。  少し残念に思うのは、大人しく隣を歩いてくれないことだった。でもふとした時、笑顔を向けられるとどうでもよくなる。  ふっ、好きに動けばいい。  思えば昔からそうだった。紺のペースに合わせるのは俺の役目。瑠璃はあの通り他人に合わせる女ではないし、仲の良い両親はよく二人だけの世界を作ってしまう。そして紺はのんびりしているので迷子になりやすい。だからいつも目が離せなかった。  そんな思い出に浸っていたら、コートのポケットで振動を感じた。  水中ガラスの前で呆ける紺を見て、スマホをチェックする。 <昨夜は充電を切らせちゃったって? 珍しいね、しっかり者の君でもそんなお茶目な失敗をするんだ>  不自然だが、ぎりぎり自然な理由を作って紺の親父さんにメールをした。というのも今朝、出かける前に恐る恐るスマホを確認したら案の定、矢のようなメールが入っていた。最初の数件は他愛もない一日の出来事を報告され、次第に露骨な内容になっていった。  つまり、「節度」と「約束」についての確認である。 <私とママはね、ご近所さんとパーティを開くんだよ> <今日はデートなんだろう?> <受験勉強で大変だろうから、息抜きも必要だね> <あぁそうだ、プレゼントを贈ったよ。だからというわけではないけど、あまり遅くならないうちに帰るといいね>  と、このような世間話を挟んでから。 <紺はまだまだ子供だから>  唐突にここを、強調してくるのだ。  たちの悪い詐欺に出くわした気分……、いや、罰当たりなことを言うな。反対されず、応援してくれてるじゃないか。こんなに有難いことはない。ならばここは一つ、春まで耐えてみせるのが男だろう。  昨夜の行為が俺の中でセーフとするなら、いくらでも楽しみようは……。 「ひー兄、あっちベルーガ! 行こ!」 「あ、あぁ」  親父さんへの返事を打ちかけていた所で、紺に腕を引かれた。 「てゆーか誰? デート中なのにスマホなんか弄ってさ」  つんと口を尖らせた紺は、俺のスマホを覗き込もうと身体をぶつけてきた。直後「ぁっ」と小さな悲鳴を上げて、俺から距離を取る。 「紺?」  青い光を浴びて、いつもより真っ白な肌が仄かに色づくのを見た。まさか、コイツでも人目を気にするんだろうか。所構わず「ひー兄、ひー兄」と呼ぶくせに?   紺のことなら何だって分かると思っていた。けれど、「恋人」になった紺はまだまだ謎に満ちている。これからどんな姿を見せてくれるのかと思えば、胸が密かに打ち震えた。 「うぅ、乳首が痛い」 「……は?」  聞き捨てならない台詞を吐くと、紺は胸の辺りを掴んでセーターをぐいーっと引っ張った。 「ば、馬鹿野郎っ」 「ぁいた」  ハッ!  卑猥な単語に動揺し、思わず紺の頭を叩いていた。いや、もちろん軽くだ、軽く。けれどもそんなのはフォローにならず、紺は瞬く速さで拗ねた。 「わ、悪い! 悪かった、紺」 「……ひー兄のせいなのに」  うっ。 「そ、そうだな? 俺のせいだ、全部俺が悪い」  むすっと膨れる紺の手を引いて、人目を避けるようにそそくさと陰へ移動した。従業員専用とおぼしき通路の角に入り、紺を壁へ立たせた。遠目には、仲睦まじいカップルがいちゃついているように見えるだろう。 「なんで打たれんの? デートなのにさ。意味分かんない」 「……すまん。あー、機嫌直してくれ、頼む」  乳首のせいだとは言えまい。 「俺といるのにスマホ見てるし」 「……すまん」  親父さんだ、とも言えない。なぜなら秘密の約束は、決して息子には知られたくない、という親父さんの真意が漂っている。口を滑らせるわけにはいかない。これは男同士の信用問題なんだ。 「電源切ってよ。俺はとっくに切ってるよ? だってさ、あの二人本っ当最悪なんだ」  紺の意識が秦と瑠璃に向き始めた。なんでも暇な変人は、今は日本海? そろそろ北極? などとガイド気取りで見どころの説明をしてくるらしい。スタッフか、と突っ込みたいのを堪え、今だけは役に立ったと褒めてやる。 「全く、ろくでもない奴らだ。いいか紺、あの二人が言うことは真に受けるな。お前が信じていいのは俺だけなんだぞ?」 「うん、分かってるよ」  一分足らずで俺への怒りを忘れ、素直に頷く紺。無性に抱きしめたくなったが、ここは我慢して頭を撫でるに留めた。すると紺は、恥ずかしそうにはにかみ、俺のことをちらちら見上げてきた。 「なんだ、どうした?」  その愛らしい仕草に目を細め、優しく問いかけた。 「あ、あのね、えっとさ。ちょっとだけ変なこと言っていい? ほんとーに、変だよ?」  迷いながら言うくせに、俺の手を取ってぎゅっと握りしめてきた。唇に笑みをのせることで、続きを促した。 「俺さ、女の子の格好しようかな?」  は? 「今日はもう無理だけどさ、ほら、俺嫌だけど、未だに時々間違えられるし、スカートとか? 穿いただけで誤魔化せると思うんだよね」    繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら「どう思う?」と意見を求められ、俺は静かに混乱してく。ただし、脳内では色々なスカートを穿いた紺の姿が躍る。チェック柄、花柄、プリーツもいいが、ふんわりシフォンもいい。が、大胆に丈の短いデニムパンツもいいんじゃないか。 「お前はそういう……、格好がしたかったのか?」  まさかこれは、女の子になりたかったという切実なあれか。と、思ったが「そんなわけないじゃん!」と即座に否定されてホッと息を吐いた。 「だってさ、そうしたらもっとひー兄とくっついて歩けるじゃん。出掛ける時はその方が気楽かもって……、ちょっと思っただけ。ちょっとだけ!」    その説明でようやく合点がいった。そして思うのは、俺と紺の気持ちが通い合っている、という紛れもない事実。なにもイルカに100%夢中になってるわけじゃなかった。きっと、こうして少しずつ恋人らしくなっていくんだろう。だとしたら小さな発見と感動の連続だ。 「それはまぁ……、いい提案だな?」 「ほんと?」  何より、俺の為にスカートを穿こうだなんて考えだすのが可愛い。 「あぁ、でもな、お前ならちょっと工夫するだけで平気だ。来い」 「え? どこ行くの? ベルーガあっち」 「ベルーガはあとで行くから、まずは売店」 「え、売店?」  紺の手を引いたまま天井の案内板を頼りに売店を見つけ出す。そこで求めた物は、道行くカップルや子供たちが被るイルカの帽子。最も、帽子というより着ぐるみに近い。頭の天辺にイルカの顔が乗っかり、耳を通って顎でボタンを留める仕様になっていた。ま、ほとんどの人は、実際留めずに垂らしている。  紺にはピンクのイルカがいいだろう。ようは、女の子らしい色を身に付ければスカートなど穿かずともいける。まぁ、機会があれば見たいは見たいが。  薄暗かった館内とは別に、売店は目に刺激的な明るさだった。その中で、ワゴンに盛られた青とピンクの帽子を見つけ、紺に持たせた。   「えー、これ被るの? うそぉ、さすがに嫌だよ」  予想できた反応に、俺は冷静に諭した。スカートとどっちがマシかよく考えてみろと。紺にピンクは似合うし、帽子のインパクトが強すぎて顔なんか見られないし、堂々と手を繋いで歩ける。とにかく、「被る」か「穿くか」を強調し、リアルに想像させた。  単純かつ素直な紺は呻りながらも帽子を手に、おずおずと被って見せた。耳あての部分をぐいぐい引っ張って、眉毛が隠れるほど深くしてから「変じゃない?」と俺の反応を心配する。 「可愛い」  途端、紺の目が大きく見開き、頬が甘い果実のように色づく。 「可愛いぞ、紺」  その何とも間抜けで愛らしい姿にはどこか、神聖な、つまり尊さがあった。つい重ねて「可愛い」と繰り返し言ってしまう。頭を撫でようとしたが、生憎そこにはピンクのイルカがいる。構わずよしよししていると、紺は観念したように「じゃぁ……、いいよ」と納得してくれた。  気が変わっては大変だ。すぐに会計を済ませ、タグは切ってもらった。店員さんから隠れるように後ろで待つ紺を連れ出し、改めてイルカを被らせた。  あぁ、たまらん。  ピンクのイルカになった紺は、先程と同様に限界まで深く被った。気恥ずかしいのだろう。耳あてを掴んだまま俯いてしまっている。 「ほら、ベルーガんとこ行くぞ」  紺の手をとって、来た道を戻っていく。進むほどに紺からぎくしゃくとした動きはとれていき、繋がった手に力がこもるのが分かった。 「ひー兄ってさぁ」 「ん? なんだ」  緊張が解けてきた紺が、俺の手を抱くようにしてよりくっ付いてきた。紺は甘え方が本当に上手い。しかし、もごもご言っているので聞き取れず、腰を落としてもう一度聞き返す。 「昨日からさ、俺のこと何度も可愛いって言うよね」 「……あ?」  紺は俺の意表を突くのも上手かった。つまり、どういうことだろう。 「えーと、あれか。嫌だったか?」  いくらデートの為に女の格好をしようか、なんて言ってくれる紺でも、心は男の子。可愛い可愛いと連発され、不快に感じていたのかもしれない。  これまで心の中でのみ愛でていたが、調子にのって言いすぎた。 「悪い、これからは気をつける」 「え? あ、違うって! えと、人に言われるのは嫌だけど、ひー兄なら別にいいよ」 「……そ、そうか?」 「うん。だってさ、褒められてるみたい?」  事実として褒めている。 「好きって言われてるみたいだし」  同義語である。 「ひー兄、俺のことめちゃくちゃ好きだもんね?」  その小生意気な問いに、内心焦った。こんな公衆の面前で煽られてたまるか。親父さんのメールを思い出し、体内の温度を冷却させる。 「お前もだろ?」 「うん! へへ」  満足そうに頷くと、紺は猫のように俺の腕に顔をくっつけてきた。正確にはイルカの頭がぶつかっているだけなのだが。 「これ恥ずかしいけどいいね」 「……だろう?」 「大切にするね」  ? 「クリスマスプレゼントでしょ?」  イルカがいっぱいになっちゃった、とか。被って外へは出られないけど、家の中で大切にするね。と、紺がとんでもない勘違いを始めた。 「ま、待て待て。なわけねーだろ? そんなふざけた帽子がプレゼントのわけあるか」 「え、そう、なの?」  大体、それではあの抱き枕に負ける。寝る度に抱かれるイルカと、部屋に飾られて終わりのイルカでは話にならない。 「いいか、あんなイルカよりもっといいものプレゼントしてやる」  悔しさのあまり堂々と言ってしまったが、実はまだ何の案もない。紺の視線を痛いほど浴びつつ、胸を張り続けた。  さて、困ったな。  しかしその後、ベルーガのおかげである閃きを得た。
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