終章 たいらのなみだ-2-

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 親父さんに義理立てするわけではないが、夜は家で食事を摂るつもりでいた。あまり凝ったものは作れないので、今夜は簡単にグラタンと揚げ物、サラダと野菜のスープにしよう。紺が喜びそうなケーキは予約済みだ。  近所のスーパーで買い出しを済ませ、ケーキを受け取ると早々に帰宅した。   「ひー兄、ひー兄、ケーキ食べるの勿体ないね? だってこれすっげー綺麗で可愛いよ」  俺の可愛い紺は、待ちきれずにケーキの封を何度も開けては閉めてを繰り返していた。そのはしゃぎように苦笑しつつ、密かに緊張感を高めていった。なぜなら、デートの締め括りにある物を渡そうと決めている。家に帰ってからでは駄目だ。あのやかましい二人が待ち構えているのでその前、車を車庫入れした時が勝負である。  いつもより慎重にハンドルを操作し、呼吸を落ち着かせてエンジンを切った。  「着いちゃった~。楽しかったね、ひー兄」 「だな」  うんうんと頷きながらシートベルトを外し、紺もいそいそと降りる準備に入る。 「紺」 「なに?」 「あー」「えーとだな」とわずかな時間を稼ぎながら後部座席からコートを手繰り寄せる。と同時に、車内の灯りも点けた。「ひー兄?」と首を傾げる紺を視界の端に収めつつ、咳払いを一つ、いや二つ。 「クリスマスプレゼントがまだだったろ? ほらこれだ」  ポケットに突っ込んでおいた小箱を紺へ向けた。 「えっ……、あ、わ、あ」  しどろもどろになった紺は、ごにょごにょと口ごもった後で「ありがとう」とはにかんだ。そのとびきり愛らしい笑顔を見るのもそこそこにして、俺は紺とは正反対の外へ目を向けた。ハッキリ言って車庫の中は真っ暗で何も見えないが、返って落ち着く。 「開けてみろ」 「う、うん!」  包装紙を剥がしていく音を聞きながら、柄にもなく緊張する自分に動揺した。どっ、どっ、と高鳴る鼓動の中、紺の歓声が上がった。 「ひ、ひー兄っ! こ、これ、これって!」  表情が動かない様に努めて平静なふりをした。なのに、興奮しきった紺が腕を掴んで激しく揺さぶってくる。あまりに「ひー兄ひー兄」と呼ぶので返事をしないわけにもいかない。  あぁ、恥ずかしい恥ずかしいと心の中で嘆きながら、自分の腕を辿って紺を見つめた。車内の淡い光の中で、紺の顔が赤く色づいているのが分かる。瞳は水を張ったように輝いていた。その中には、俺だけが映っている。 「気に入ったか?」  ふっと口角を上げて訊ねると、「めちゃくちゃ嬉しい!」とてらいのない返事と共に俺の胸に飛び込んできた。もっとも、助手席にお尻を預けたままなので大胆に腰を捻り、随分と苦しい体勢だった。 「こっち来い」  座席の位置を下げ、スペースを開けて紺を抱えるようにして膝へ座らせた。 「ひー兄大好きっ」  紺は上機嫌になって俺に身を預けてきた。受け止めるためにさらにシートを倒し、半ば抱き合うようにして運転席で一つになった。 「ひー兄、これって婚約指輪? あ、でもお揃いだから結婚?」    紺の髪へ頬を埋めながら、その小さな身体をそっと抱きしめる。 「どっちだっていいだろ? お前が俺のものだっていう証だ」 「……うん。俺、ひー兄のもの」 「あぁ」 「ひー兄も俺のもの」 「あぁ、そうだ」  紺は胸を反らしながら一心に俺を見つめてきた。応じるように身を屈め、背中を支えながらキスを始めた。 「ぁ、ん……、ん」  健気な口を味わっているうちに、紺の身体を気遣って横抱きに変えた。ドアガラスに押し付ける後頭部を庇いたくて、手を差し入れた。それから執拗に腔内を舐め、突き、柔らかな唇を吸い続けた。その間、紺は手の中の小箱を決して離さず、俺の衝動を受け止めてくれた。  可愛い紺。俺だけの紺だ。 「ひーにぃ、ねっ、ねぇ」 「どうした? 苦しいか?」  互いの唾液で濡れそぼった唇をぱくぱくさせて、紺が力なく頭を振った。 「指輪、はめて」 「……あぁ」  余程緊張していたのか、小箱から紺の指を剥がすのに苦労した。一本一本丁寧に外し、貝を開くようにして指輪を二人の間に広げた。そこには、紺お気に入りのイルカがシルバーリングとなって収まっていた。一見ハート型に見えるが、二対のイルカが中央に向かっているのでそう見えるだけ。  ヒントは、ベルーガが放つバブルリングだった。そして単純にも恋人への贈り物としてふさわしいと思ったのだ。男だから、なんて常識に今更とらわれることもない。紺は「男」ではなく俺の「恋人」で、最愛の「妻」だ。  本格的な結婚指輪はまた買うとして、今日はこのイルカに決めた。    どうだ、抱き枕なんかよりいいだろう? 「紺、二人でいる時は指でもいいが、普段はこうして、首に掛けろ」  紺にトイレへ行くと嘘を吐き、通りで見つけたアクセサリーショップへ大急ぎで戻り、素早く決めた。その時、店員にやや怪訝に思われたがネックレス用のチェーンも付けてもらったのだ。 「あ、うん、分かった。ひー兄も?」 「あぁ、俺もだ」  紺だけでなく、ペアで自分の指輪も購入した。 「めちゃくちゃ恋人っぽいね」 「あぁ、恋人だから当然だな」 「うん! へへ、なんかすっげー恥ずかしいね?」 「……あぁ、恥ずかしい」 「でも嬉しいよ?」 「俺もだ」  そんな会話を重ね、紺の首にも、自分の首にもイルカをぶら下げた。  ひと時見つめ合い、また当然のように顔を寄せ合ったその時。  後方からライトの光を感じた。それに大きなエンジンの音も重なる。ルームミラーを注視していると、荷物を抱えた人が横切るのを見つけた。 「あ、宅配だ。そういや、お前にプレゼント贈ったって親父さんが言ってたぞ? 来たのかもな」 「え、そうなの?」  現実に意識が向いたことで甘い雰囲気は消え、ドアを急いで開けた。先に紺を下ろして向かわせると、「ひー兄!」と大きな声で戻ってきた。 「俺ん家じゃないよ、ひー兄に荷物だって」 「俺?」  家に荷物など滅多に届かないし、利用した覚えもないので怪訝に思った。 「宅配の人待ってるよ」  そう紺に急かされ、玄関に向かうと寒そうに足踏みをして待つ宅配業者がいた。ぺこりと頭を下げ合い、慌てて鍵を開けて明かりを点ける。重たそうな段ボールが運び込まれると、真っ先に送り状を確認した。品名は「野菜」、送り主は「母」、それだけ。    は?  瞬間、頭が空っぽになった。ついで胸騒ぎを覚えて心臓が不穏に高鳴る。 「ひー兄、俺サインするよ?」 「……あ、あぁ。頼む」  背後で紺が「ありがとうございます」と宅配業者を見送った。玄関の扉ががらがらと閉められるその時まで、俺は段ボールを見つめて固まっていた。  「ひー兄?」と紺が俺の袖を引っ張りながら隣に立つ。段ボールから視線を剥がし、無邪気な笑顔を見せる恋人の頭をくしゃっと撫でた。それだけで凝り固まった神経が解れていく。  紺に見守られながら段ボールの前で膝を折り、ガムテープを剥がした。 「わっ!」  直後、紺が俺の背中に抱きつきながら段ボールの中身に驚愕する。 「な、なにこれ!」「どうしたのこれ?」「なんで」と激しく動揺する紺に、俺は何も言えなかった。咄嗟に唇を噛み、迸る熱い感情を呑みこんだ。 「ね、ねぇ、何なのこのお金……」  俺の知らない場所でただ普通に生きて、死んでいってくれ。 「あの人……、母に、くれてやった金だ」  背中に紺の重さを感じながら、手で目元を覆った。  あの言葉に嘘はない。後悔だってしていない。もう二度と、顔を見るのも御免だ。これでようやく解放されたはずだった。半ば強引にお金を置いてきたが、あの人はそれでも受け取った。だからこそ救われた。決して分かり合えないのだと思い知ったから。 「良かったね」  なのに。 「良かったね、ひー兄」   不覚だった。  紺の前で、こんな醜態を晒したくはなかった。それも、母が原因だなんて認めたくない。悔しい。ふざけている。 「ひー兄、泣いてるの?」 「……いや」  俺の肩口から顔を覗き込もうとする気配を察し、逆に紺を腕の中へ囲った。決して顔を見られない様にぎゅっと抱きしめる。「く、くるしっ」と文句を言われても力を緩めない。 「ひー兄、良かったね」   「良かったね」「良かったんだよ」と繰り返しながら、紺は腕を精一杯伸ばし、俺の背中を擦ってくれた。  世界で一番愛しい彼がそう言うのなら、そうなのかもしれない。    心は穏やかに凪ぎ、あとには愛しさだけが残った。                                                     【完】
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