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くすぐったさから目を覚ますと、不意に視界が陰った。と同時に口を塞がれる。
「……んっ」
瞼を開けずとも、相手の正体は明白だった。一晩中温まった布団の中で身を重ね、濡れた音を響かせながら口付を交わす。広い背中にしがみつきたくて腕を伸ばすが、シーツの上に縫い留められた。そのうち指を絡ませ、二人の指輪がカチリとぶつかった。
「ぁっ……、ひ、にぃ」
「おはよう、紺」
「ん……、はっ……ぁ、お、はよ」
暦の上では春だというが、三月の朝はまだ冷える。だからこそ人肌は温かくて心地いい。唇は蕩けるほどに甘かった。
キスの合間に朝の挨拶を済ませると、ようやく距離を空けてくれた。緩慢な動作で瞼をぱちぱちさせていると、ひー兄はさっそく起きて短い髪を手ぐし一つで整える。
あぁ、ひー兄今日もカッコイイなぁ。
陶然としながら見つめていると、ひー兄がふいにこちへ手を伸ばしてきた。ハッと身構えたものの、目的は俺ではなく眼鏡で、装着するや「ほら、そろそろ起きろ」と保護者の顔に早変わり。眼鏡一つで切り替えられるひー兄はすごい。俺なんていつまでも引きずられてボーっとしてしまう。記憶を遡って、ひー兄にされたことを思い出しては頬を火照らせる始末だ。
「紺、もう九時だぞ」
「う~……、うん」
渋々ながら頷いて背中を起こすと、ひー兄は俺の頭を撫でてから洗面所へ行ってしまった。
そっか。もうそんな時間に……、あれ?
頭の中で引っ掛かりを覚えた。それが何だったか考えようとするが、遠くで妙な音が聞こえて思考が遮断される。
玄関の方?
寝室として使っているここは玄関から一番奥の角。廊下一本で繋がっているせいか。例えばそう、鍵をガチャガチャと開ける音、無遠慮な足音、「紺!」と呼ぶ友の声がよく……聞こえ、る?
「あー、居た居た。ちょっと、もう約束の九時過ぎてるんだけど?」
「しっ、秦っ!?」
そうだった!!
ここに至って昨夜交わされた一方的な約束を思い出す。
「まったく、休みだからって爛れてるよね。いやらしー」
そう言うと、秦は部屋の様子にちらと視線を走らせつつ溜息をもらす。
「べっ、べべ、べつにそんなこと、は」
事後の処理はいつもひー兄がしてくれている。裸じゃないし、汚れたタオルもティッシュも転がっていない。とはいえ、愛の巣とも呼べる場所へ上がり込まれ、じろじろと観察されるのは非常に居た堪れず、首を絞められたような気分だった。
「もー、瑠璃さん待ってるんだから行くよ?」
秦は一気に距離を詰めると、俺の腕を引っ張って立たせる。で、問答無用に歩かせるのだ。
「えっ、ちょっ、待って、まだひー兄に言ってない!」
「そんなの後でいいから」
「で、でも、あ、あっ、ひー兄! ひー兄っ」
玄関まで引っ立てられた時、大声でひー兄を呼んだ。心はまるでヒロインである。例えるならばそう。悪者に攫われ、恋人と引き裂かられるという場面。
「紺っ!?」
俺の王子様は台所から飛び出してきた。その手には仏様に供えるご飯の器があった。それを慌てて靴箱の上に置くと、俺の肩をぐいと引き寄せてくれた。
「秦、また勝手に合鍵使いやがって、朝から何のつもりだ」
「あー、悪いんですけど、今日の紺は僕のものなんで、諦めて下さい」
「なっ……んだと!?」
「あっ、言い間違えました。僕と瑠璃さんと三人で出掛けるんです」
言い間違えはわざとに違いないが、新たな情報に俺は目を剥いた。そしてひー兄の顔つきは険しくなる。
「本当か?」
「あ、う、えと……、前から秦とは遊ぶ約束してて」
「デートね」
「……じゃなくて遊ぶ約束で、いきなり今日だって言われて。あ、昨日の夜に。あ! でも姉ちゃんが一緒なんて俺も聞いてない」
下手くそな説明に苛立ったのか、ひー兄の双眸が鋭く吊り上る。もちろん攻撃対象は秦だ。もっとも、神経の図太い秦には何の動揺も誘えない。
「……なんで瑠璃が」
「ぜ、ぜったい何か企んでるよね!」
「当然だな。そんな危険な奴らに紺は渡せねぇ」
うわ、聞いた? 今の聞いた?
状況を忘れて胸をときめかせていたら、ひー兄は絶対に渡さないと言わんばかりに俺を抱き寄せた。
「まったく面倒くさいですね」
溜息交じりに肩を竦めると、秦はズボンのポケットからスマホを取り出し、速やかに電話を掛けた。ただ一言「お願いします」と丁寧に告げ、ひー兄へスマホを渡す。
ひー兄は、俺を片手で抱いたまま胡散臭そうにスマホを耳にあてる。そして勇ましく「おい瑠璃」と、声を荒げるのだ。俺の為に。
「どういうつも……、は? いや……、いや待て、それは卑怯……は? はぁ? そっ、それは……いや、いや駄目だ。そんなアホなこと……」
会話を重ねるほどにひー兄の様子がおかしくなった。俺を守っていたはずの手は外れ、そのうち背中を向け、頭を抱える。その際、「節度」「男の約束」という単語が繰り返し上がっていた。
しかしてその勝敗は。
「許せ……、紺」
!!
通話を終えたひー兄は苦悶の表情を浮かべ、秦へスマホを返した。「どーせこーなるんです」と勝ち誇った秦が堂々と俺の手を引く。同時に俺の背を、ひー兄がやんわりと押す。
「ひー兄!? なんで? ひー兄!」
「紺、あとで……迎えに行く」
「えっ?」
「が……、頑張ってくれ」
何を!?
いくら手を伸ばしてもひー兄は俺から目を逸らし、最後には扉の向こうに消え、とうとう引き離された。ほんの五分前までイチャイチャしていたのに、瞬く速さで過去にされていく。
どんよりする俺の心とは裏腹に、頭上には素晴らしい青空が広がっていた。
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