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◆◆◆◆◆
紺が連れ去られてから、かれこれ一時間が経つ。
あの変態にどんな辱めを受けているのか、分かっている。良心の呵責に胸を痛めながらも待つしかない俺は、粛々と家事をこなしていた。洗濯をし、布団を干し、掃除機をかける。玄関を掃いてから冷蔵庫の前で腕を組む。
紺は腹を空かせているだろう。そして心身共に傷ついているはず。それを癒すのは甘い物に違いなく、ホットケーキにしようかフレンチトーストか。サンドイッチにジャムとクリームチーズを挟むのもいいと考える。
冷蔵庫の中を吟味すると、プリンやヨーグルト、シュークリームなどの甘味類の多さに気まずくなった。
「買いすぎたな……」
期限は大丈夫だろうか。
紺が喜ぶと思ってつい、買って来てしまう。というのも、邪魔が入る度にこちらへ逃げてくるので籠城するために必要だった。
以前は空っぽに近い冷蔵庫が、今ではほぼ食材で埋まっている。
週末はここで過ごすことが多く、自然、紺の荷物が増えていった。食器棚には鮮やかな深緑色のマグカップと茶碗が恋人らしく、買い揃えてある。そのうちパジャマやバスタオル、スリッパなども新調してしまいそうだ。我ながら浮かれている。
「ふっ」
独りだというのに、笑ってしまった。
無理もない、と言いたい。なぜなら、例の約束から解放される日が近付いている。
実はこの月末に、紺の両親が一時帰国する。目的は俺と紺の門出を祝うためで、ありていに言えば「婚礼」であり、「披露宴」である。ホームパーティで充分だと思うが、わざわざ温泉地の旅館を手配してくれた。
男同士なので当然挙式はない。が、その日をもってケジメがつくのは事実。
形ばかりとはいえ、そういった場を設けてくれるだけでもう感謝しかない。だから、今ここで瑠璃にあらぬ事を親父さんの耳に入れられては困る。ハッキリ言って俺と紺はまだ「未遂」だ。一応。ぎりぎり。
準備は始めているが、それもこれも紺の為であって、決して無体なことはしていない。
という説明を瑠璃にしてもどうせ信じてもらえず、笑われるのがオチだ。つまり。
紺、耐えてくれ。
祈るしかなかった。少しばかりの期待をもって。
紺が戻って来たらすぐに焼けるようにフレンチトーストの下準備を済ませ、時計を確認する。
「さて……、そろそろ迎えに行くか」
流しで手を荒い、ペーパータオルで拭いていたら悲鳴のような声が飛び込んで来た。と同時にドタバタと廊下を駆ける音がした。
「ひー兄ぃっ! うわぁぁぁ~ん!」
「こ、紺!? こっちだ」
「ひー兄どこ!? どこにいるのっ」
「だからこっち、こっちだって」
どうやら紺は一直線に寝室へ走り、俺がいないと分かるや居間と仏間のある縁側へとって返した。この狭い家で絶妙なすれ違いをしながら追いかけあった。そして居間と仏間からそれぞれ出てきた俺と紺は、朝陽、とはもう言えまい。中天にさしかかった輝かしい陽光を燦々と浴びた縁側で、相まみえた。
そこには、目を真っ赤に腫らした少女が、いた。そう、少女だ。そうとしか見えない。
目にも鮮やかな珊瑚色のチュールスカート。丈の短いオフホワイトのパーカーは、ざっくりしてサイズが大きい。どういうわけか髪は長く、耳の辺りで無造作に纏められ、計算されたような後れ毛が顔やうなじの周りにちらほら見える。そのラフさが愛らしいのに、妙に色っぽい。
「こ、紺……、か?」
紺でしかないのに、そのあまりの変貌ぶりについ語尾を上げる。
「うわぁぁ~ん! 紺に決まってんじゃん、紺だよっ!」
「お、おぉ……」
怒り散らかしながら胸に飛び込んで来た紺を受け止めると、甘い香りが鼻孔をくすぐった。そして「姉ちゃんも秦も酷いっ!」と朱色に濡れた唇が動く。
め、めちゃくちゃ可愛いじゃねぇか……。
「いきなり服脱がされてさ、顔にいっぱいへんなもん塗られてさ」
「そうか、そうか」
「髪に変なもんつけられて臭いし、もう、意味分かんない!」
「あぁ、そうだな、あぁ」
「絶対絶対、ただの嫌がらせだし! こんな格好でどこも出掛けないから!」
興奮する紺の肩を撫でながら、とりあえずうんうんと頷く。そうしながら、光沢さえ見える艶やかな肌、コーラル色の頬、くるりんと上向く力強い睫毛、繊細な線が走る胡桃型の瞳を見つめて頬を緩めた。
「なに笑ってんの!」
「あはっ、いや、すまん……、くくっ」
「ひー兄っ!」
「あははっ」
「もーっ! あっ、うわぁ」
腕の中でもがく紺を抱き上げながら、「似合ってるぞ」「可愛い可愛い」と褒めてやった。するといつもより白い肌が朱く染まり、悔しそうに唇を尖らせた。長い睫をぱちぱちさせて、気持ちのやり場に困っているようだ。
「紺、めちゃくちゃ可愛いぞ」
もう一度ハッキリ言うと、迷いながらも「……ほんと?」と訊いてくる。その様がまた眩しくて、俺は目を細めた。
「あぁ、その格好でお前とデートしたい」
「……変じゃない?」
「変なわけないだろ。可愛いって言ってる」
「……気に入った?」
「あぁ」
迷わず頷くと、紺は嬉しそうな、それでいて複雑そうに視線を彷徨わせた。
「いつもより?」
「ん?」
わずかな沈黙を挟んで、言葉の意味を察した。
「ふっ、ばーか」
「なっ! だ、だって、もし、ひー兄がこれが良いなら、俺だって」
「いつものが良いに決まってるだろ? でも、たまにはこーゆーのも新鮮でいいな。飯食ったら、どっか出掛けるか」
「……うん」
大人しく頷いた紺を一心に見上げ、視線を絡ませた。意図を察した紺が、俺の肩に手を置いた。紺の足が、俺を挟もうとして大胆に開いていくが、スカートが邪魔だった。窓を背にして、片膝で紺を支えながらスカートの裾を捲り上げた。俺にしがみつく紺へ愛しさを募らせながら、果実のようなその唇をうば……。
「ちょっとそこの色ボケ発情バカップル!!」
唐突に上がった声の直後、軽いもので俺と紺は頭を叩かれていた。
「勝手に盛り上がってちゅっちゅっしてんじゃないわよ、襞がぐちゃぐちゃじゃない! 誰の服を着てると思ってんのよ、買い取ってもらうわよ!?」
「うわー、とんでもないですね。瑠璃さんがどれほど心を砕いて二人の為に努力をしているのか、全く分かっていません」
「秦君、説明してあげてくれる!?」
俺は紺を床へ下ろし、肩を寄せ合うようにして静かに待った。
秦は勿体ぶるように喉を鳴らし、酷く真面目くさった顔を作る。
「瑠璃さんは、この先誰か一人のものになるつもりはありません」
的外れな内容だったが、その宣言を「婚礼」を楽しみにしている母親に言ったことがキッカケだと知る。
嘆き悲しんだおばさんに瑠璃が提案したのは。
「じゃぁ紺に花嫁衣装着せればいいじゃない、ということで、そういうことになったんです」
「なっ、なにそれ! 変だよ! 聞いてないよそんなのっ!」
紺が尽かさず訴えたが「一応秘密だったんで」と悪びれずに言う秦。
というか、コイツは何だ? 瑠璃の秘書か? どの立ち位置にいるんだおい。
そして、先程の電話ではただ「紺を女装させて遊ぶ」とだけで、少しの好奇心に抗えず、行かせた。脅されたし。
よもや、そんな計画が進行中だったとは。
「紺だって悩んでたじゃない? デートの時、人目が気になって手も繋げないって。ちょっと我慢して女の子になればどこへでも平気で行けるんだよ。遊園地だって動物園だって。それに、似合ってるしね」
咄嗟に紺を背中に隠すも、内心動揺した。その悩みについては察していたが、秦なんぞに相談されるのは悔しかった。
「親孝行だと思って、観念してドレスでも振り袖でも着ればいいじゃん。大したことないって」
「ったく、時間がなくなっちゃうわ! 平君、車出してよ、あとカード渡しなさい。紺のもの買うんだから、嫁の身支度は旦那がもつのよ!」
それにご馳走しなさい、と、手に丸めたグルメ雑誌だろうか。それを掲げて身を翻す瑠璃と、影のように付き従う秦。
俺と紺はしばし、抱き合ったまま息さえ止めて固まっていた。
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