あまりにも遅いから、もうアイツのことは忘れようと思います

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それから、どれくらいの時間が経ったか分からない。 私は何も考えずに雨の音を聞き、男はじっと私の横に座っている。 今日会ったばかりで、互いにどこの誰とも知らない男女が、未完成の店の中で何も話さずにいる。 何故、そんな時が成立しているのか。 朝は、今日来ると期待していた内定の連絡を心待ちにしながら掃除をしていた。就職活動がもう終わると信じて、対策本やエントリーシートの失敗作をかき集めて処分の準備をしていた。 昼には、夜に美味しいものを食べるために、あえて何も食べずに、出前の情報をワクワクしながら探していた。お寿司にしようか?カレーにしようか?それとも一人で食べきれないほどのピザにしようか? その次には、社会人になったらどんな服を着ようか、と妄想を始めていた。今は安さと楽さ重視のお手軽学生コーデしかできないけれど、自分で働き始めたお金で、ちょっとリッチなオフィスカジュアルのコーディネートも楽しみたいと、ささやかな夢を見ていた。 彼氏もできれば欲しい。これまでも、出会いはいくつかあったはずだけど、どうにもうまく噛み合わなくて、今日の今日まで誰かと付き合うというチャンスすら手に入れられなかった。 全てが、今日からスタートするはずだった。 それが、一気に狂った。 何がいけなかったのだろうか。 どこで失敗したのだろうか。 もう一度私がゴミを掘り起こして、心を殺して、あの苦しい時間に戻らなくてはいけないのだろうか。 雨はまだ止まない。 雨が止めば、私はまた戻らなくてはいけない。 雨はまだ止まない。 まだ、止まないで。 そう思った時、男が優しい眼差しで、私を見ているのが分かった。 窓に反射して写る私の顔が、涙を流しているのが分かった。 男は、ぽんっと1回私の頭に手を当てると、みかん色の液体が入っていた空のグラスを持って、カウンターに戻る。 私は、あえて男の方を見ずに、コーヒーを一気に飲み干す。 「にがい……」
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