あまりにも遅いから、もうアイツのことは忘れようと思います

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シャーという、カウンターから水音が聞こえて来た。 男が、自分の手を洗っている。 「飯、食ってくだろ」 「ここは、あなたの店なんですか?」 「そうだよ」 「喫茶店……?」 「ラブホテルだと思った?」 「ふざけてるんですか?」 「まあまあ」 男が、慣れた手つきで野菜を切っている。 トントントンと、リズミカルな包丁使いは、実家の台所を思い出させて、切ない気持ちになる。 「……何を作っているんですか?」 「ん?それはできてからのお楽しみ」 「は?客の注文を聞いてから普通作るでしょ。メニューくらい教えてくれてもいいんじゃないですか?」 「そんな先がわかりすぎる人生って、窮屈じゃない?」 男は、みじん切りにした野菜をおしゃれなフライパンに流し込む。」 「やっぱり、サプライズの方がワクワクすると思うんだよね、俺」 「サプライズなんて、別にいらないし」 「えーなんで?」 「だって、先が見えないのって……疲れる」 自分の思い通りにできてこそ、心の平穏が訪れる。 雨が降ることがわかれば傘がさせる。 授業でテストが行われることがわかれば、勉強ができる。 そうして、先々の予定がわかれば、それに基づいて準備ができる。 決まり切ったルーチーンは、感情の浮き沈みも一切なく、淡々と、喜びを作りやすくなる。 私はこれまで、そういう人生を歩んできたし、選んできたつもりだった。 それなのに、先に組んでいたはずの予定は、思いも寄らない出来事で、全てが崩れた。 考えていた時間の全てが無駄になった。 サプライズとはそういうもの。 1本の過去から未来へ向かう糸をあっという間にたちきり、無理に繋ぎ直そうとしてこんがらがり、結局糸そのものを使い物にならなくする。 今の現状がまさにそう。 予定になかった、決して面白くもない支出が増えた。 見知らぬ男にワンピースを汚された。 よくわからない場所にこうして座らせられて、にがいコーヒーを飲まされる。 そして雨はますます強くなる。
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