第九章

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第九章

 二度目の情事の後、芳明は乱れた髪を撫で付けながら、少しばかり狼狽えていた。髪を整えずに外を歩くなど、芳明には考えられない行為である。  既に、二人の間には、暗黙の決め事があった。決して、互いの家に、連絡し合わないこと。故に、情事はいきあたりばったりにならざるを得ない。だからと言って、必要な物を常に持ち歩くわけにもいかないのだ。  外は穏やかで、微風程度しか吹いていない。 「どうぞ」  芳明の前に置かれたのは、見慣れたポマァドの壜であった。芳明は訝しんだ。それは、俊紀の使っている物とは違うはず。匂いで分かるのだ。 「間違っていましたか?」  芳明が戸惑っているのに気付いたのだろう。心配そうな声が背後から聞こえた。 「どうしてこれが?」  目の前に手鏡が差し出される。芳明が髪を整え終わるまで、持っているつもりらしい。 「匂いを覚えておりました」 「わざわざ」 「例え男の物とはいえ、匂いが違えば奥様が訝しむでしょうから」  少しだけ、口籠った。  芳明は、先日の久仁子の表情を思い出し、理解した。あの時久仁子は、芳明以外の人間の移り香を嗅いだに違いない。  そうして、俊紀にも、そういう過去があるのだと気付いた。 「匂いのせいで、どなたかに知られた過去がおありなのですね」 「兄に、気付かれました。二種類のポマァドの匂いがすると。洒落者の兄など持つものではありませんね。  私も、友人宅に泊まったとでも、嘘を付けば良かったのですが、思いもかけぬことに戸惑ってしまって」 「叱られましたか?」 「罵倒されました。  でも、兄も考えたようです。私が所帯を持てば、今のように散財はできなくなります。むしろ都合が良かったのでしょう。すぐに理解を示し始めました」 「そうですか」  素っ気なく答えて、芳明は壜を手に取った。正直助かりはするものの、複雑な気持が胸に渦巻く。 (私の立場は一体、なんであろう。もう、友人ではあり得ない。恋人? あり得ようもない。愛人とも違う。  あぁ、そうだ。男妾(おとこめかけ)のようではないか? 今の私は)  俊紀の気持ちが知りたいと思った。問うてみたい気もしたが、怖くなってやめた。恋人と言われるのも、愛人と答えられるのも、ましてや、男妾などとは。 (友人と言われたなら、滑稽過ぎる)  髪を整え終えると、俊紀が、手鏡を持っていた手を引いた。  礼を言うべきかと見上げたが、言葉が唇から溢れることはなかった。必要ないと思ったのだ。 (俊紀様は、ご自分のなさりたいことをなさっただけ。  やはり私は男妾なのだ)  頬に触れる温かな指が、なぜか冷たく感ぜられた。
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