第十章

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第十章

 傷付くことが増えた。誰かに意地の悪い攻撃を受けているのではない。何気ない言葉や事柄に、勝手に傷付いていると言うべきであろう。  ある時、親しくしている友人から、君は益々美しいな。と言われた。本人は褒め言葉のつもりだったのだろうが、芳明はまるで、俊紀を誘惑したのだろうと、責められた気がして、俯いてしまった。  いつだったか、見知らぬ婦人が、知り合いの令嬢を俊紀に紹介したいのだが、一向に相手にしてくれないのだ。と、話しをしているのを小耳に挟み、ひどい罪悪感に囚われたこともある。  責めるのは、言葉だけではなかった。ある時など、自宅で風呂に入ろうと、脱衣所で着物を脱いでいた時、胸の辺りに赤黒い痣を見つけた。 (あ……)  硝子の丸い電灯が、仄明るく芳明の身体を照らす。  もう、以前のような、ただの友人には戻れない。それが分かっていながらも尚、芳明は時々、未練を感じずにはいられなかった。  思い出してみれば芳明は、妊娠を知らされて以来、久仁子を抱いていなかった。  そして、久仁子との情交において、一度として悦びを得たことが無いと気付いた。 (当然だ。久仁子は私にとって聖なる女なのだ。芳和という、愛おしい存在を生んだ、聖母なのだ。快楽を得るための体ではない)  快楽の対象を、婦人に求めることを、深層で拒絶しているのかもしれなかった。 (だから離れられないのだろうか? 俊紀様との関係は、快楽を得るためだけの手段なのか? 私はそんなに、浅ましい人間だったのか?)  否定したかった。しかし、否定しきることはできない。迷路を彷徨っているような、心許ない気持ち。芳明は自分にとって、俊紀がどういう存在なのかを、理解しかねていた。  二人の関係を、快楽を得る手段だと考えれば、芳明は自らの道徳を裏切っていることになる。逆に、愛情によるものであるとしてもまた、自らの道徳に反する。どんなに足掻こうとも、芳明の行為を正当化することはできない。  痣から目を逸らす以外に為す術もなく、湯から上がると、いつもなら久仁子と一言二言言葉を交わしてから布団に入る処を、おやすみ。お言ったきり、眠りに就こうと、目を閉じた。  微睡み始め、視界が薄暗くなってきた。眠りの世界だけは、安らぎであるはずだった。   『ここはどこだ?』  段々と、暗さの中に、形が薄っすらと浮かんできた。 『どこだろう見覚えのあるような気がするけれど』  靄が晴れる様に、形がはっきりとしてくる。 『あれは寝台。そして、あれは』   白い影が二つ、蠢いている。 『あれは俊紀様と私』  淫靡な声が響く。まるで一体の生き物の様に、手が、足が絡み合う。靄は更に薄くなり、見たくないのに、表情が見え始めた。  芳明は快楽に喘ぎながら、俊紀の白い背中に、爪を立てる。一際高い声で細く叫ぶと、脱力し、寝台に身体を投げ出した。  俊紀の唇は普段よりも更に赤く、同様に赤い舌で、芳明の唇を舐めると、口付けた。応える形で、俊紀の首に腕を回す。 『私は、こんな表情をしているのか』  快楽に溺れた表情。今まで否定してきた自分が、そこにはいた。 『私を見ている私は一体』  体は動かない。どうにか移動できる視線だけを動かすと、闇の硝子鏡が目の端に確認できた。  柔らかな金髪が見える。絹の質感のドレスが映る。 『やはりお前は、私達を見ているのだな。私達の罪を』  自らの失望と共に、秘密の情事をずっと見続けているビスクドールに対する怒りがこみ上げてきた。  壊してしまえばいい。所詮は人形。大した罪ではない。  手を伸ばそうとして、言うことを利かないことに気がついた。そう、今は、芳明こそがビスクドールなのだ。それを壊すと言うことはつまり、死を選択することになる。  恐怖を感じながら、喜びをも得ていた。自分とビスクドール。両方が一度にこの世から消えてしまえばどれだけ安堵するだろうか。  夢なのか現実なのかを理解できないまま、目を開いた。汗が額に浮かんでいる。芳明は寝間着の袖で汗を拭うと、体を起こした。  月夜だった。青白い光が地上を照らし、昼間とは全く違う趣で風景を浮かび上がらせる。久仁子がよく眠っているのを確認すると、上着を羽織り、寝台を下りた。  足音を忍ばせて、庭に出る。そこはまるで、死の世界だった。太陽の光を受けている時とは全く違う。生命力を感じさせない。冴え冴えとした月に照らされて、木も、石も、全てが息を潜めているかのように思えた。 (なぜ断てないのだ? 俊紀様との関係が。あんな浅ましい自分など、存在していいはずがないのに)  外に出て、十分も歩けば危険な場所があった。高さにして十間ほど下に、川が流れている。数年前その近くで遊んでいた近所の子供が落ちて、死亡した。  芳明の心には、死が忍び寄っていた。この世から消えてしまえば、楽になれるのだ。と、心の中に、誰かの声が響く。  芳明は門に向った。今はただ、罪に対する苦しみしか、頭の中にはなかったのだ。 (もう、苦しむ必要は無くなるのだ)  頼りない足取りで、門に向かう。 「芳明さん」  背後から声を掛けられて、思わず立ち止まる。死の世界に相応しくない、明るい、優しさに満ちた声。 「久仁子」  足音が聞こえなかったのは、芳明の気持がこの世に無かったからかもしれない。乾いた地面を蹴る音が、今は聞こえるのだから。 「こんな時間にどうしたの?」 「月があまりに明るいので、目が覚めてしまいましたの」  あどけなく、久仁子は笑う。 「昼の景色も美しいですけれど、夜のこの、静寂に満ちた風景は、心を癒やしますわ」  久仁子には罪が無いのだ。だからこそ、どんな景色を見ても、美しく見えるのだろう。罪深き者は、これが死の世界に見えるのかも知れない。 (いや、それもまた、罪人に対する癒やしではないのか)  芳明には、この月夜の世界で、生きているのは久仁子一人だけに見えた。自分は勿論、木も、石も死んでいる。ただ、久仁子の為に自分は、生きている振りをしなくてはならなくなっただけで。 「部屋に戻ろうか」  芳明は久仁子の肩を抱くと、優しく囁いた。 「はい」  寄り添って、二人は歩く。  月は白い山茶花の花弁を、青白く浮かび上がらせた。 (あれはやはり、死の世界の花だ)  太陽の光を浴びれば息を吹き返す、二つの世界に存在する花。  今は静かな美しさを持っていた。
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