第一章

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第一章

 有間子爵家では長子、芳明が仏蘭西留学から戻って来た。二十三歳の芳明は、外務省への勤めも決まっている。 「よくお似合いですわ」  母の登美子は、芳明の襟帯(ネクタイ)を締めながら、うっとりと呟いた。  社交界の華と謳われた、登美子によく似た芳明は、上品な美しさを有していた。二重の優しい目元、形の良い、薄い唇、通った鼻筋。ほっそりとした姿態で、仏蘭西では何度か、男装の婦人と間違えられたこともあった。  芳明は、ポマァドで撫で付けた髪が乱れていないのを確認すると、次に、全身を映して眺めた。  男らしさに欠ける容姿に、不満を感じた時期もあった。同級生達の体格に、劣等感を持ったことも。  今はただ、丈夫な体を与えてくれた両親に感謝をするだけである。  用意ができたと父親に伝え、用意された車に乗り込む。  父、孝芳も登美子も、いつも以上に気を使った格好をしている。それもそのはずで、今日は初めて、芳明の許嫁に会いに行くのであった。  孝芳が、特に親しくしている大杉男爵の末娘だが、芳明は勿論、孝芳も会うのは初めてである。親しい婦人から聞くには、淑やかで可憐な少女だとか。  渡仏前に何度か顔を出した社交界を思い出せば、噂がどこまで本当であるかは疑わしい。一見、淑やかそうな令嬢達から向けられた視線に、たじろいだことも、一度や二度ではない。  ただ、一度だけ会った大杉男爵夫人を思い出せば、芳明の心には、期待が湧き上がるのも事実であった。慎ましやかで、優しい雰囲気だったと記憶している。そんな夫人に躾けられたのであれば。と。  三人は無言でありながら、気もそぞろなのが伺われた。  久しぶりの日本を楽しむ間もなく、祝言は間近である。一日も早く嫁を。と、周りが望むのも仕方はない。子爵家の長子として、当然の義務と思われた。そして、どんな婦人であろうと、両親の決めた相手と結ばれることも。  最も大切なのは二人の感情ではなく、両家の繁栄なのだから。  それでも密かに、期待がある。一緒に花を愛で、共に感動できる相手であって欲しいと。どんな時にも、隣で優しく微笑んでくれる人であって欲しいと。  大杉男爵家の門が見え、今まで激しく打っていた心臓が落ち着き始めた。これ以上考えても始まりはしない。かくなる上は覚悟を決めて、どんな婦人であろうと、自ら歩み寄ろうと考えながら車を降りた。  通された座敷で、六人は向かい合っていた。大黒柱を思わせる恰幅の良い大杉男爵と、細身の上品な夫人。二人の間には、いつまでもお辞儀をしているのではないかと思わせるほど、深く俯いたままの令嬢が座っている。 「娘の、久仁子でございます」  久仁子は一向に頭を上げようとはしない。丁寧に結われた日本髪から微かに覗く額は、真っ赤に染まっている。  芳明は二十三の今まで、女性の肌を知らずにいた。機会がなかったわけではない。友人に、その手の店に誘われもしたし、魅力的な婦人からの密かな誘いもあった。しかし、芳明はどんな誘惑にも、気持ちが揺れたりはしなかった。生涯を共にする人以外の肌を知るなど、ふしだらだとしか思えなかったのだ。  男なら当然。などと言う愚かな言葉にも乗せられることはなかった。  今、目の前で恥じらう久仁子の姿に、芳明は自分の選択の正しさを確認した。  そして、感動的な事実に気付く。この人こそ、生涯を共にするただ一人の人だと。  夫人に促されて、久仁子は漸く顔を上げた。  あどけない表情、丸い大きな目、ふっくらとした健康そうな頬。少女という言葉がよく似合っている。  知性を湛えた瞳が芳明を捉えたが、すぐにまた、恥ずかしそうに顔を伏せた。 「なんて可愛らしいのでしょう」  心底嬉しそうに、登美子が溜息を吐く。 「本当に、噂に聞いていた以上の可憐さですな」  娘に恵まれなかった両親は、すぐにでも連れて帰りたいと言わんばかりに、感嘆の声を上げる。  その声が理由なのだろう、久仁子は手の平までも桜色に染め上げてしまった。 「芳明もそう思うだろう?」  芳明は、なにか気の利いた言葉を言おうと口を開きかけたが、体中、特に顔の体温が急速に上がるのを感じ、俯いた。  途端に、互いの両親が笑い出す。 「情けない。堅物でしてな」 「私以外の男とは殆ど、言葉も交わしたことのない娘ですから、芳明君の誠実なお人柄に、安心致しました」 「久仁子は幸せ者ですわ。  顔をお上げなさい。貴女の旦那様になられるお方ですのよ」  夫人の言葉に、芳明も慌てて顔を上げた。  躊躇いがちに、久仁子は顔を上げる。そうして、芳明を見て、はにかみの笑顔を見せた。  その、眩いまでの愛らしさ。  この笑顔が自分だけのものになるのだと考えて、感激のあまり、じんわりと涙が目を濡らし始めるのが分かった。 「大切に致します」  その言葉は、大杉男爵夫妻に、両親に、そして誰より、久仁子に向けた言葉であった。  義明は、一目惚れをしたのだと思った。今まで会った、どんな婦人とも違う。清らかな空気が漂っているように思える。 「久仁子さんを、私が守ります」  心の底から、伝えた。
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