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第三章
三月。芳明は一人、親しくしている長月侯爵家の舞踏会にいた。長月侯爵は風流な人で、広い庭をいくつかに区切り、季節の花でいっぱいにしている。三月の今は、梅が盛り。春の湿度を含んだ風が、梅の香りをふくらませていた。
「まるで、花の精のようですわね」
満開の梅の花は洋燈の光に照らされて、雲に覆われた空を背景に浮かんで見える。芳明を見上げている長月侯爵夫人からは、花に埋もれているように見えるのだろう。
「有間子爵夫人の美しさを、残らず受け継いでいらっしゃるのね。お気付きになりまして? 令嬢方が気もそぞろに、芳明様をご覧になっていましたわよ。よろしいの? こんな隅にいらしてて」
長月侯爵夫人は、登美子とは違った美しさを有していた。年齢を感じさせぬ若々しさと、年齢を経てのみ得られる妖艶な色香。
登美子を、凛とした気高いオランダカイウ(カラー)に例えるとすれば、長月侯爵夫人は、月並みだが、真っ赤な薔薇であろう。迂闊に触れれば棘で怪我をするところまで、似ていた。
「妻帯の身では、令嬢に気を取られるのは罪です」
「相変わらずですこと。
今日は、奥様はどうなさいましたの? お珍しいわ。社交界一の愛妻家の地位を、その若さで得たような方が」
「体の調子が良くないようで」
「おめでたではございませんの?」
芳明は正直驚いた。そんな当たり前のことを、全く考えていなかったのだ。
「違うとは思いますが」
「殿方は、鈍感ですからね。お母様にご相談なさったらよろしいわ」
「そう致します」
生真面目に答えると、長月侯爵夫人は苦笑した。
「こちらにお出でだったのだね」
地から響くような声が聞こえた。声の主は、シルクハットの似合いそうな、面長の紳士。長月侯爵である。一人ではない。背の高い紳士を伴っている。
「どうしても、芳明君に会わせたい方がいてね。漸くお出でになったのだよ。
松澤伯爵の弟君、俊紀君だ。彼も仏蘭西に留学していたから、良い話し相手になると思ってね」
松澤伯爵とは面識があった。葉巻の似合う気障な洒落者で、四十前後に見えた。
俊紀は、三十を超えた位だろうか。神経質に見える一重の目、白い肌。あまり表情は崩さず、冷たい印象を与えた。
「有間芳明です」
俊紀は、人差し指で眼鏡を押し上げると、品の良い笑顔を見せた。
俊紀は、芳明と話がしたいと、長月侯爵に申し出た。長月侯爵は、上機嫌で場を離れようとしたが、夫人は、なぜか不安そうな表情を見せながら、なかなか離れようとしない。なにか問題でもあるのだろうか。そう考えなくもなかったが、芳明はすぐに忘れてしまった。
「巴里には二年いました。本来は四年の予定でしたが、父が亡くなったのでやむを得ず、日本に戻って来たのです」
芳明は公費、俊紀は私費留学であった。松澤伯爵家は資産家であるから、驚くことでもあるまい。
「しかし、戻って来てからが大変でした。兄が財産の殆どを食いつぶしていたのです。婦人との遊びに加え、賭け事、洋館の建設。放蕩の限りを尽くしていました。
まぁ、財産に関しては、留学していた私にも責任はありますが。
幸い、義姉が聡明な人ですので、協力して頂いて、事業を始めました。私にもしものことがあれば、会社は、甥の手に渡るようにしています。決して、兄には渡さぬように。と」
「甥御様がお出でですか」
「はい。まだ十二歳ですが、義姉に似て賢く、真面目な子なので、安心です。成人するまでは、義姉が会社を動かすことになりますが」
涼し気な口調で語るが、婦人の言うことを、社員が聞くかどうかが問題ではなかろうか。
「社員も、兄がどんな人間かを知っています。義姉がどんなに立派な人かも。
唯一、兄の手柄は、義姉との婚姻でしょうね。両親の決めたことではありますが」
この時代、特権階級である華族が事業を始めるのは、勇気のいることであった。財産を失った華族は、親族の世話になって生きている例が多い。
厳しい風に身を晒した経験のない、やんごとなき育ちの者が多い為、詐欺師の口車に乗って、借財を増やされるよりは、暮らしの面倒を見るほうが、親族にとってもまだましだったのだ。
第一に、成功するとは限らないのだから、誰も彼もが手を出せるわけもない。
梅園を歩きながら、俊紀は饒舌だった。初対面時の、冷たい印象を払拭させるほどに。
「有間様、奥様はご一緒ではないのですか?」
突然、思い出したように、俊紀は言った。
「この頃体調が良くないようなのです。
私が一人で外に出ると、妻を独り占めできるので、母の機嫌が良いのです。私は体よく追い出されたようなものです」
楽しそうに、俊紀は声をたてて笑った。
「松澤様は? 奥様は」
「私は独り身です」
長子では無いとはいえ、それは意外な事実であった。
芳明は、俊紀は自分と同じなのではないかと感じていた。真面目で、妥協ができない性格。芳明は長子であり、独り身でいるわけにはいかない。
しかし、両親の決めた相手を娶ることに抵抗がなかったとはいえ、久仁子でなければ、躊躇いを感じなかったとは言い切れない。
比較的自由になる立場なら、相手を自分で選ぼうとしたかもしれない。
「どなたか、思う方がおいでなのですか?」
俊紀は、質問に対しては笑いで答え、優雅な仕草でまっすぐ、光を示した。
梅林の向こうは、華やかで賑やかだった。
「お開きのようですね。
時間は、誰にでも平等に与えられると申しますが、本当でしょうか? 私は、楽しい時間ほど、早く流れているように思われて仕方ありません」
「私もそう思います」
「また、会って頂けますか?」
芳明にしても、俊紀は魅力的な友人であった。自分とは違う世界に生きている、年長の友人。
「是非」
偽りのない、心の底からの答えであった。
屋敷に帰り着いた頃にはもう、すっかり夜も更けていた。まずは、母屋に久仁子を迎えに行かなくてはならない。芳明が行くまで、登美子は久仁子を離そうとしない。
運転手に礼を言って、母屋の玄関扉を開く。
奥に続く廊下を見て、芳明は言葉を失った。使用人が集まって、並んでいる。
「おめでとうございます」
示し合わせたように、皆が揃って頭を下げた。
何事が起こったのだろうか。芳明が戸惑っていると、頬を紅潮させた登美子と、満面の笑顔を湛えた孝芳とが、抱きつかんばかりの勢いで手を取った。
「芳明、お前、年の瀬には父親になるのだぞ」
孝芳の言葉が理解できず、はにかんだ笑顔の久仁子に目をやる。久仁子の白い手が、優しくお腹の上に重ねられていた。
「子供?」
長月侯爵夫人の言葉を思い出した。
「お医者様に見て頂きましたの。産み月は十月だろうと」
芳明は久仁子の元に歩み寄った。周りからは好意に満ちた、目出度い雰囲気が読み取れる。
芳明は恐る恐る、久仁子のお腹に手を当てた。不思議な気持ちだった。ここに、小さな命が息づいているのだ。
久仁子の顔を見る。今まで見た中で最も美しく、輝いていた。
「嬉しいよ」
芳明がやっとの思いで言うと、久仁子は涙を零した。
言葉とは裏腹に、芳明はなんの感情も持てなかった。
(私は冷たい人間なのだろうか?
いや、まだ実感が無いだけなのだ)
自らに言い聞かせると、ポッケットから手巾を取り出し、久仁子の涙を拭いた。
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