第四章

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第四章

 久仁子の悪阻は重く、芳明は男の無力さを日々、噛み締めざるを得なかった。  毎日、見る度に頬の肉が削げていく。食事を口に近づけることさえ辛いらしいが、お腹の子の為と無理をしている姿など、痛ましい以外の何物でもない。  少しでも力になれるなら。と、芳明は勤めの帰りに、果物を買って帰ることも度々であった。爽やかな香りのする果物ならば、久仁子も笑みを浮かべて口にしてくれるからである。  「久仁子さんは?」  芳明の休日に、登美子が現れた。どうやら登美子は、久仁子の様子と、お腹の中の孫が気になって仕方がないらしい。 「久仁子は休んでいますよ」 「そう。お昼寝は必要だわ。少なくとも、眠っている間は、悪阻の苦しみから開放されますからね」  登美子は、頷きながら、納得している。その姿が、若い芳明には頼もしく見え、胸に支えたままの苦しみを吐き出す決心をさせた。 「実は、お母様に伺いたいのですが」  登美子を居間に通すと、妊娠を知らされて以来、いつも心の隅に存在していた疑問を、芳明はとうとう口にした。 「私は冷たい人間なのでしょうか。久仁子の妊娠を、心の底からの喜んでいないようなのです。久仁子がただ、可哀想で」  登美子は優しく笑んだ。 「貴女は、お父様に似て、お優しいから。  お父様も、私の悪阻の重さに、心を痛めて下さいました。でも、お腹の中で貴方が動き始めると、私の体が落ち着いたこともあって、段々と愛おしく感ぜられるようになられたそうですわ。  貴方はまだ、戸惑っていらっしゃるだけなのですよ。殿方はそれで普通です」  登美子は穏やかな表情で芳明を慰めると、野江が用意した苺を口にした。 「美味しいこと。良い季節になったわね」 「若旦那様が、若奥様の為に買っていらした物です」 「あら、頂いてもよろしいのかしら」  野江は笑った。 「食べきれないほど、買っておいでですから」 「どこが冷たいですって? お優しいこと」 「このくらいしか、私にはできないのです」 「殿方は、大きく構えていらっしゃれば良いのです。子を生むのは、女の仕事です。大変そうに見えて、幸せな仕事なのですからね」  同感。とでも言いたそうに、野江も頷いた。 「早く孫を抱きたいわ」 「私も楽しみです。お可愛らしく、賢いお子様がお生まれになることでしょうね」  二人の言葉に、芳明はやはり、笑みを作るしかなかった。  悪阻は時期を過ぎると治まり、次に待っていたのは、体の変化だった。  久仁子は、食欲が戻ると、健康的な頬を取り戻した。お腹も膨らみ始め、毎日芳明を驚かせる。お腹の膨らみは、赤子が生きていることを、芳明の目に明らかにした。生きている。と、無言で訴えていた。  芳明の気持ちも、少しずつ落ち着いてきた。愛おしいと思えるようになったのだ。  子煩悩な孝芳も、暇を見つけては久仁子を見舞いに来る。もしかしたら、誰よりもこの子の誕生を楽しみにしているのは、孝芳かもしれなかった。    七月初め、懇意にしている伯爵家のサロンに、芳明一人で出席している時、背中に視線を感じた。こんなことは初めてだった。気持ちを落ち着けて、徐に振り返る。 (俊紀様?)  俊紀は、仕事上の付き合いがあると言っていた侯爵と話しをしながら、芳明を見つめている。  芳明は、視線を辿った為に、俊紀と目が合った。一瞬、驚いたように目を見開いたが、優しく笑み、ゆっくりと視線を逸した。  久しぶりの姿であった。  洒落者の松澤伯爵とは違い、俊紀はまるで、洋装のお手本のように真面目な着こなししかしないようだ。そんな処も、芳明には好ましかった。  視線の主がわかってしまうと、芳明は落ち着きを取り戻した。公私共に付き合いのある人との挨拶を一通り済ませた頃、俊紀に庭へ誘われた。  社交的と見られる芳明であるが、正直、得意とは言いかねる。故に、人の少ない場所への誘いは嬉しかった。  伯爵が気に入っている音楽学校の生徒が奏でる、ヴァイオリンの音が、微かに聴こえる。庭の片隅では、盛りの白百合が芳香を放ち、目眩すら覚える幻想的な雰囲気を醸し出していた。  立場の違う二人の間で交わされる話は、主に留学先の巴里だった。華やかで美しく妖しい魅力を持つ、花の都。 「芳明様は、ダンスはなさられないのですか?」  突然、俊紀が言った。巴里の社交界の話しをしていた時である。 「巴里の社交界では」 「いいえ、巴里ではありません。この前も、今日も、踊られる姿を拝見しておりません」 「ダンスは苦手なものですから。  俊紀様こそ」 「私は踊れないのです」  本気なのか冗談なのか分からない笑みを、俊紀は見せた。 「奥様と、踊られないのですか?」 「妻とは踊ります。妻はダンスが上手なのですよ」 「あぁ、今はご懐妊中なのでしたね」  芳明が頷くと、俊紀は目を伏せた。 「奥様は、大層素敵な方だそうですね。あるご婦人が仰っていました。まるで、この白百合のように、清らかでお可愛らしい方だと」 「はい。  お笑い下さいませ。私は妻に恋をしているのです」  恥ずかしさに俯いた。俊紀は何も答えない。呆れたのだろうか。言わなければ良かった。と、後悔し始めた頃、明るい声がした。 「羨みこそすれ、どうしても笑いなど致しましょう。奥様はお幸せですね」  芳明が顔を上げると、俊紀はにこやかに笑っていた。  しかし、何かが違う。さっきまでとは明らかに違う。俊紀は笑っていながら、笑っていないように見えたのだ。  不愉快にさせてしまったのだろうか。  芳明が戸惑っていたその時、背の高い白百合に触れて、俊紀は左手を花粉で汚した。人差し指と中指が、黄色い花粉に染まっている。  芳明は手巾を取り出すと、俊紀の左手をとり、拭った。細い指はとても熱く、緊張した様子が伺われる。 (私としたことが、断りもなく触れるなど、なんと失礼なことを)  咄嗟のこととはいえ、行動が親切心だったとはいえ、失礼には変わりなく、謝るべきだと、顔を上げた。 「手巾を、汚してしまいましたね」  さっきの表情は見間違いだったのかもしれない。芳明はそう思った。俊紀の目は、笑っていたのだ。 (誰かに似ている) 「手巾など洗えば良いのです」 (あぁ、そうだ) 「ありがとうございます」 (久仁子の、はにかみの笑顔に似ている)
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