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第五章
俊紀は一見、冷たそうに見える外見に似合わず、付き合いは楽であった。話しを始めれば際限はない。会う度に親しみは増し、自然、芳明は久仁子を紹介したいと思った。
その反面、躊躇う気持ちもある。どうやら俊紀には誰か、心に思う相手がいるようなのだ。誰かは分からない。時折見せる寂しそうな表情が、芳明にそれを知らせた。
苦しい恋をしている人に、愛妻を紹介するのは躊躇われた。
しかし、機会は思いもかけず訪れた。
落葉樹が色付く頃、長月侯爵邸で行われる慈善夜会に、久仁子を連れ出すようにと、長月侯爵夫人に頼まれたのだ。
突き出たお腹を恥ずかしがっていた久仁子も、長月侯爵夫人のお誘いとあれば、無下に断れもせず、久しぶり外出を決心することとなった。頬を掠める風が、乾き始める、九月半ば。
久しぶりに親しい婦人達と会った久仁子は、最初の緊張はどこへやら、楽しそうに話しに花を咲かせ、笑っている。
この日の為にお腹を締め付けない型のドレスを新調した。派手を好まない久仁子の意見で、オオソドックスな型にしたが、芳明が気に入った同色のレェスで胸元を飾った。同色なので目立ちはしないが、久仁子の可愛らしさを引き立てた。
長月侯爵夫人と話しをしている時、また、視線を感じて目の端で確認した。思った通り、俊紀がいた。いつの間にか、芳明は視線の有無で、俊紀の存在を確認できるようになっていた。
芳明の視線に気付いたらしい長月侯爵夫人が、困ったような表情を作ったまま、声を潜めた。
「俊紀様には、これ以上お近づきになってはいけません」
その一言で、芳明は今まで胸の奥に存在した疑問が、晴れたような気がした。俊紀の想い人は、長月侯爵夫人ではないかと考えていたのだ。美しいこの人には、若い、秘密の恋人の噂もあり、恋愛に長けている。
「なぜでしょう?」
「あの方はね」
長月侯爵夫人は言い辛そうに、更に声を潜める。失礼だとは思いながらも、芳明は顔を近づける必要があった。
「殿方をお好みなのです」
目元をほんのりと、赤く染める。
男女の色事には長けていると噂の長月侯爵夫人でさえ、男色は勝手が違うのか、戸惑いを隠せないらしい。
「初めて伺いました」
「冗談だと思ってらっしゃるのね」
「もし本当だとしても、お相手は誰でも良いわけではないのでしょう?」
「そんなことは仰っていましたけど。
でも、貴方のようにお若く、綺麗な方はお近づきになってはいけないのです。お可愛らしい奥様が、お大事でいらっしゃるのならね」
長月侯爵夫人は、潤んだ瞳に色を湛え、芳明に視線を向けた。
しかし、その艶っぽさも、芳明には無意味である。芳明の視線の先には、久仁子がいる。どんなに美しい婦人も霞んで見えるほどに、芳明は久仁子を愛していた。
膨らんだお腹に手を当てて、久仁子は幸せそうに笑っている。
(聖母マリア様でさえ、あの笑顔の清らかさには敵うまい)
久仁子と、久仁子が身籠っている子が一番の宝物と認める芳明には、妖艶な長月侯爵夫人の誘いなど、お茶の誘いほどの価値さえ見出せなかった。
(それなのに、どうしてだろう)
芳明はさっきから、背中に感じる視線が気になって仕方がないのだ。久仁子を見つめているのに、背に感じる視線が、ともすれば視界から久仁子を消し去りさえした。
心を奪われそうな、意味ありげな視線。
いつも、俊紀の視線を感じていたが、今日のような視線は初めてであった。
膝の力を失いかけて、芳明は体を震わせた。目を閉じて、気を取り戻す。
「奥様が大事でいらっしゃるのね」
芳明はその言葉を、今まで誘いを悉くかわし続けた自分への、称賛として捉えた。
「軟弱者よと、思われますか?」
疲れた頭の中で、それでも芳明は、長月侯爵夫人に答える義務を怠りはしなかった。
「そんなことはございませんわ。今時珍しいくらい、好ましい殿方だと思うだけですわ」
仲の良い婦人達との話に、一区切りついたのだろう、久仁子が芳明を見た。芳明は気付いて、手を上げ、こちらに来るように促す。
「お邪魔ではございませんこと?」
久仁子に、長月侯爵夫人はまるで、母親のように美しい笑顔で答えた。
「あら、芳明様が寂しがって大変でしたのよ。
あちらにお坐りになりませんこと? 私、疲れましたの」
身重の久仁子を労っての言葉だとはすぐに知れた。長月侯爵夫人の足取りは、とても軽やかであったのだ。
久仁子もその点に気付いたらしく、ニコリと笑うと、素直に受けることで、礼に代えた。
「ごきげんよう」
着席とほぼ同時に、背後から俊紀の声がした。芳明は誰にも気付かれぬよう深呼吸を一つすると、不自然にならぬよう、気を付けながら振り返る。
俊紀は芳明に笑いかけると、そのまま、久仁子と長月侯爵夫人の前に回り込んだ。
「初めまして、松澤俊紀と申します」
立ち上がろうとする久仁子を手で制して、俊紀は恭しくお辞儀をした。
「お気楽になさって下さい。大切なお体ですから」
久仁子を気遣いつつ、俊紀は婦人向けの話題を提供した。俊紀は今時の男子には珍しく、婦人に敬意を払うことのできる人である。
長月侯爵夫人の言葉は、品位の高くない噂であると、芳明が忘れようと考えた時、俊紀が視線を芳明に向けた。質問されたのだが、芳明は言葉につまり、暫く考える振りをする必要があった。
今の芳明の心は、裏切り者のそれと同じであった。俊紀に見つめられると、そんな気持ちが湧き上がって来るのだ。責めるような視線。
しかし、芳明は俊紀に責められるような理由など何もない。疚しさなどあるはずはないのに、芳明は裏切り者の気持ちで、俊紀の視線を受けていたのである。
芳明の不自然な態度に気付いたのだろうか、長月侯爵夫人は時々、芳明に心配そうな視線を向けた。
俊紀が去った後も、芳明は視線を感じ続けていた。隙を見つけて、肩越しに確認する。強い視線に、血が逆流するような恐怖を感じた。
「どうなさいましたの? お顔の色が良くありませんわ」
長月侯爵夫人の言葉に、久仁子は芳明に顔を向け、まぁ。と小さく叫びながら絹の手袋を外した。
「お熱はございませんわね」
「お疲れではございませんの? お帰りになった方が宜しいわ」
近くにいた使用人を、長月侯爵夫人は視線だけで呼び止めた。
「有間様がお帰りです。お車の用意を」
威厳さえ感じられる声に芳明は安堵し、少しだけ楽になった気がした。
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