第六章

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第六章

「お加減はいかが?」  寝台に、芳明はぐったりと横になっていた。 「大丈夫、少し疲れただけだよ。私のことはいいから、君もゆっくりしなさい。疲れただろう」  夜会であったとはいえ、まだ休むには早い時間であった。 「お傍にいさせて下さい。私、芳明さんの傍が一番、安らげますの」  久仁子はそう言うと、椅子に座って本を広げた。  芳明は目を瞑ったものの、今日のことが気にかかって眠れずにいた。  長月侯爵夫人の言葉と、俊紀の視線。 (あの方が本当に男色家なのだとしたら、あの視線の意味は)  なにかを告げたそうなあの視線。裏切り者の気持ちを味わったのはもしかしたら、俊紀の隠している気持ちに気付いたからなのだろうか。 (隠している気持ち? 誰に対する、どんな気持ちなのだ?)  芳明は思考を停止させて、深く息を吸い、深く深く息を吐いた。心を落ち着かせようとしても、難しかった。  「松澤俊紀様のお噂をご存じ?」  眠る用意をしながら、久仁子が言った。芳明は内心動揺しながら、なに? と問う。 「俊紀様が三十歳をお超えになっても尚、お独り身なのは、とても愛していらしたお嬢様と、身分違いを理由に引き裂かれておしまいになったからだそうですわ。十年以上も前のことですのに、俊紀様はその方のことが忘れられないのだそうです。どんなに伯爵がお薦めになられても、お見合いさえなさられないのだとか」 「そう。お気の毒だね」  人は、他人の不幸を見て、我が身の幸せを噛みしめる生き物である。一見、美しい恋の話に感動しているように見える久仁子でさえ、自分の平穏な生活と比べて、安心しているのだろう。 「私達は幸せだね」  久仁子は微笑む。 「こちらへおいで」  長い髪を束ねている久仁子に、芳明は掛け布団を持ち上げて声を掛けた。 「でも」  久仁子は大きなお腹を撫でて、俯き加減に戸惑う。 「腕枕をしてあげる」  久仁子は頬をうっすらと染めると、淑やかな仕草で立ち上がった。 「お疲れになりません?」  布団に潜り込み、腕に頭を載せながら、久仁子は心配そうに問う。 「疲れるものか。こんなに軽いのだからね」 「重うございますわ」 「だとしたら、なんと幸せな重さだろうね」  まるで、西瓜を隠しているかのようなお腹を撫でると、芳明はその手で、掛け布団を久仁子の肩に掛ける。  芳明は、自分の腕の中で眠りに就く、久仁子の寝顔を見るのが好きだった。外敵の存在しない森で眠る、小兎を思わせる。久仁子にとって芳明は、身も心も安心して預けられる、信頼すべきただ一人の人間として認めていると、無言で伝えられているのである。これほどの喜びがあろうか。  安らかな寝息に、芳明は漸く、穏やかな気持ちを取り戻すことができた。  以来、芳明は社交界を避けるようになった。俊紀とは頻繁に会うわけではない。が、以前、小耳に挟んだ言葉を思い出したのだ。誰か言ったかは憶えていないが、最近、俊紀は人が変わったように集まりに顔を出すようになった。が、芳明が出席していない時は、俊紀もいない。と。 (もしかしたら)  考えてはいけないと思いながら、芳明は考えずにはいられなかった。  十月半ば、早朝の寝室に、芳明の弟が不躾にも飛び込んで来た。 「お父様が亡くなられました」  あまりに突然の知らせに、芳明は飛び起きると、久仁子を野江に任せて、母屋に急いだ。  孝芳は、蒲団の中で冷たくなっていた。苦しんだ様子がないのが、せめてもの慰めであった。  使いに出ていた運転手が、医者を連れて帰って来た。医者は、孝芳の目を真剣に覗き、脳の血管が切れたのでしょう。と言った。  優しく厳しい父であった。威厳があり、正しさを愛する男であった。  この瞬間、新しい子爵が誕生した。悲しみと喜びがこの家を抱きしめた。  葬儀のために家中が忙しなく立ち回る中、久仁子が産気づいた。予定日にはまだ数日あったが、生まれても問題のない時期である。  耳を覆いたくなるような苦しみの声が途切れ、赤子の劈くような鳴き声が聞こえたのは、明け方のこと。 ー命名  有間  芳和ー  軍事色の強くなる時代、せめてこの子の生きる時代は平和であるように。との思いを込めて、孝芳が用意していた名前である。  父子爵の死、新しい子爵の誕生、そして、跡取りの誕生と、怒涛のままに、有間家には、新しい時代が始まろうとしていた。
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