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第七章
風が剃刀の鋭さを持って吹き荒ぶ一月の終わり、芳明は若い華族達の集まるサロンにいた。
一通りの挨拶を終えた。俊紀はいない。安堵のため息を吐く。
そのくせ、なにやら心の中に穴の空いたような、そこはかとない苦しみも感じる。友である俊紀を男色だと決めつけ、自惚れにも似た考えで避けている罪悪感のせいだろう。
僅かな時間でも、俊紀を忘れていたかった。そんな気持ちも後押しして、有意義な討論、政策に対する意見、反論に、いつも以上の熱を持って、積極的に加わっていた。
「あぁ、そろそろお開きの時間ですね」
若き侯爵の言葉を合図に、皆が席を立ち始める。
そんな中、一人の紳士が現れた。
「間に合わなかったようですね」
荒い息を吐きながら俊紀は残念そうに呟くと、残っていた人達と挨拶を交わし、芳明の前に立った。
「久しぶりに子爵と、お話しできると、楽しみにしておりましたのに、仕事が長引いてしまいました」
外套の併せ目に外の新鮮な冷たい空気を含ませたまま、俊紀はあの、芳明を捉え込む視線を向けた。
「それならば」
自分でも考えていなかった言葉が唇から溢れ、いけないと思いながらも、芳明は自分を止めることができなかった。
「是非、これから」
俊紀の赤い唇が、三日月を象った。
「それでは、我が家へお出で下さい」
若い華族だけの集まりで、長月侯爵夫人はいなかった。もし、この場に居たのならば、芳明を止めてくれたはずである。それもまた、運命であったのだろう。
伯爵家の敷地に入ると、館と呼ぶに相応しい洋館が見えた。これこそが、伯爵家を潰しかけた元凶であろう。
「私の住まいは、あちらです」
庭の隅に、時を経てこそ得られる、味わいのある、純日本家屋があった。
「食事は母屋から届けて貰いますし、仕事上の来客は、あちらの居間を使っています。ここにあるのは書斎と、寝室だけです。
曽祖父が隠居生活の為に作らせた物です。狭いけれど趣があって、小さな頃から憧れたものでした」
本当に小さな家であった。俊紀の言う通り、二間と湯殿、ご不浄しか見当たらない。
芳明が通された板張りの部屋には、丸い机と二脚の椅子、寝台のみ。
机に、二人は不自然に隣り合わせて座ると、時を忘れて話した。
巴里に俊紀がいたのは、芳明よりも五年前であり、口にする様子などもなんとはなく違っていたが、互いに懐かしみ合った。
「仏蘭西は美しく、進歩的な國ですが、私はやはり、日本が好きです」
俊紀が、空になった洋盃に、葡萄酒を注ぎながら言った。
「それは、好きな方がおありだからですか?」
葡萄酒で滑らかになった舌は、心の底に押し込んでいたはずの言葉を、飾りもなしに紡ぎ出す。
俊紀は最初、驚いたような表情をしたが、すぐに目の縁を紅く染めた。人よりも白い肌に赤みが差し、切れ長な目に一段と艶が増す。
「妻に聞きました。俊紀様は、ある令嬢を思い続けているのだと」
まるで少年のように、俊紀は微笑んだ。
「長月侯爵夫人が仰いました。俊紀様は、殿方をお好みだと」
まるで、悪戯を見られた少年のようだと、芳明は思った。みるみるうちに、俊紀は顔を赤く染め、俯いたのだ。
「どちらが本当なのですか?」
俊紀は言葉を発しようとしたらしいが、芳明の元には届かなかった。
「最近、私は強い視線を感じています。その視線を辿ると、いつも俊紀様がいらっしゃった。
あの視線の意味を、教えては頂けませんか?」
俊紀の視線は、いつの間にか芳明にまっすぐ注がれ、もう戸惑いは見せていなかった。
「仏蘭西へ渡る前のことです。私は長月侯爵夫人に、ご婦人とのお付き合いを指南して頂こうとしたのです。
しかし、どうしても受け入れることができませんでした。甘い香りのする柔らかな肌がなぜか嫌で、漸く私は、己の性癖を知ったのです。
長月侯爵夫人は、お口の軽い方ではない。その方が子爵に仰ったのは、私の好みをよくご存知なのでしょうね」
俊紀は、白い指で眼鏡を外すと、芳明の目を覗き込んだ。
「二人きりのこの部屋で、そんなことを仰ると言うことは、おありなのですね」
「なにが」
「覚悟です」
「なんの?」
芳明の左肩が、熱を持った。
「これからわかります」
顔が近付いて来る。
紅をひいたように紅い唇が、芳明の血色の悪い唇に重ねられる。
芳明の心に、嫌悪感は無かった。むしろ、陶酔に似た感情が湧き上がる。
右肩にも温もりを感じ、両肩に、引き寄せようとする力を感じた時、芳明は我に返った。
必死の思いで顔を背け、無理矢理唇を離すと、両手で俊紀の胸を突いた。
洋盃が床に触れ、破片を散らす。電灯の光を受けて、煌めきながら、四方に飛び散った。
「無体な真似は致しません」
芳明は袖口で涙を拭くと、洋盃の破片を踏みつけて部屋を飛び出した。
まだ日の出の遠い午前三時、芳明は覚束ない足取りで、ひたすら我が家を目指した。
息が白く濁る。感覚を失いつつある冷たい指先を慰める。外套を忘れて、震えているはずなのに、肩と唇だけは熱かった。
家人を起こさぬよう静かに家に入り、居間に向かった。電気も点けす、封を切ったばかりのブランデを手にすると、洋盃に注いだ。喉の焼けそうに強いそれを、喉に流し込む。
両手で洋盃を包み込み、芳明は声を殺して泣いた。自分が理解できずに。
(私は畜生道に堕ちたのだろうか。妻にも、侯爵夫人にも、美しい女優にも感じたことのない欲望が、私の心を占領しようとした。
あの時、俊紀様に身を委ねたいと思った心は嘘ではなかった。ただ、道徳を捨てきれぬ私は、拒むことしかできず……私は)
芳明は、自分でも理解できぬ苦しさに、ただ、泣き続けるしかなかった。
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