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第八章
「この子は、本当に手のかからない子ね」
目を覚ました芳和は、泣き出しもせずに手を玩具に遊んでいた。
「そうなんですの。時々、つまらないと思わせるくらい、おとなしいのですよ」
子供部屋は祝いの品で溢れていた。久仁子の実家から、親戚から、親しくしている人から、色々な贈り物が届き、あっという間に、芳和の箪笥の中は一杯になってしまった。
芳和の枕元には、小さな美しい音匣がある。孝芳の遺品を整理していた時に、富美子が見つけた。『芳和へ』とあった。まだ、削り目は新しく、わざわざ贔屓の職人に作らせた物らしかった。
周りが、男の子に違いない。と、言い始めた妊娠九ヶ月に入った頃、孝芳はこの名を決めた。もちろん、女の子でも嬉しいのだがね。と、好々爺の笑みを浮かべながら。
初孫の為に、孝芳はこの音匣と名前を用意していたのである。
名は、命の次に与えられる贈り物であると言う。幸せな赤子は、誕生の瞬間から名を持っていた。音匣を、周りの人の愛情を一身に受け取っていた。まだ幼すぎて、ありがたいとは思いもすまいが、芳和は幸せすぎる赤子には違いなかった。
「あの音匣をよく、ご覧になってますのよ」
「旦那様の?」
「はい。音が鳴っていなくても、視線を向けていらっしゃることが多ございますの」
「まぁ、それはもしかしたら」
「お父様が芳和をご覧になられておいでなのでしょうね」
二人の思いを壊すまいと、芳明は感情を込めて言う。
芳明は現実的な性格で、霊魂や生まれ変わりを一切信じていなかった。しかし、今も音匣に視線を向けている芳和を見ていると、なるほど、孝芳は過ぎるほどに子煩悩であったな。と、肯定しそうになってしまう。
いけないことではない。思い出で心が満たされるなら。そう考えて芳明は、まるで自分も信じていると言わんばかりの態度を示した。
久仁子が音匣の蓋を開いた。優しい子守唄が流れる。芳和は踊るように、手足を上下させた。
「あら、お腹が空いてらっしゃるのね」
頬に触れる久仁子の指に、芳和が行儀悪く吸い付いた。二人は示し合わせたように、授乳の用意を始める。
芳明は視線を外した。何度か接吻もしたことのある乳房は、赤子の口に含まれると、別の尊い物に見える。それなのに気恥ずかしく、直視できないのだ。
「次は、女の子が欲しいわね」
登美子の明るい声が響く。
「お母様、芳和が生まれたばかりで、久仁子もまだ、体が本調子ではありませんのに」
芳明の過剰な反応を登美子は、愛しさ故と取ったのだろう。更に目を細めた。
「分かってますよ。直ぐにとは申しておりませんでしょう」
「私も、女の子が欲しいと思っておりますの。芳明さんに似た子なら、どんなに美しく成長することでしょう」
(子供)
一人目が生まれたかと思えばもう、二人目を周りが暗に要求する。
(義務なのだ)
そう考えた途端、疲れを感じた。
(子供は可愛い。でも)
「この子は久仁子さんによく似ていますね。とても優しい面立ちで、賢そうで。きっと、誰からも愛される、立派な子爵になってくれるでしょう」
久仁子の白いうなじに、乳房に、芳明はなんの欲望も持てないことに気づいた。
(俊紀様のせいだろうか)
あの夜が思い出される。
(違う。あれは夢だったのだ。気の迷いに他ならない。私は妻を愛している。心の底から。あれは単なる好奇心に過ぎなかったのだ)
呪文のように、芳明は心の中で唱え続けた。
二月末、久しぶりに久仁子を伴って、芳明は舞踏会に出席した。
庭を覆う水仙の香りに、時折、虜となった二人は、ダンスの輪から離れて、散策をしていた。
「あ」
危うく叫びそうになって、芳明は自分の口を塞いだ。
「どうかなさいましたの?」
久仁子が、心配そうな顔で見る。
「なんでもない」
そう言いながらも、動揺は隠せない。芳明は視線を動かせないまま、体を震わせた。
俊紀がいたのだ。しかし、一向に気付かなかった。
元々、賑やかな場所を好まない人である。目立つわけでもない。見つけられなかったのは不思議でもなんでもないが、芳明が信じられなかったのは、あの視線を感じられなかったことである。
あれほど熱い視線を送り、接吻までしておきながら、今の俊紀には、芳明など全く見えていない様子であった。
良かった。と思う反面、芳明はなぜか、怒りにも似た感情を持っていた。
(一年経つのだ。俊紀様と初めてお会いしたのも、同じ季節だった。二人で梅園を歩きながら、お話しをした)
水仙の芳香が一瞬、梅の香に思えた。
「松澤様のお宅にお邪魔する約束をしたから、今夜は帰らないよ」
俊紀は一度も、芳明に視線を向けなかった。一度も。
芳明は久仁子を乗せた車を見送ると、帰ろうとしている俊紀に近づいた。
俊紀は、芳明の姿を確認すると、無表情のまま、後部座席の扉を開いた。
また、俊紀の部屋に入る。それがどんな意味を持っているのか、芳明は理解していた。
俊紀は外套を取ると、赤葡萄酒と洋盃を用意した。
「この前、外套を忘れてお出ででしたが、風邪などひかれませんでしたか? どうお返しすべきかと、悩んでおりました」
俊紀の皮肉に、苛立ちを覚えた。乱暴に外套を取り、手袋と共に置くと、息苦しさを感じて襟帯を弛め、第一釦を外した。
「どうぞ」
洋盃を渡される。その時、人差し指が微かに触れ合った。それだけのことに芳明はひどく動揺し、半分ほど満たされた赤葡萄酒を、一気に飲み干した。
「無茶をなさいますな。どうなさいました?」
俊紀は無表情のまま、洋盃を口に運んだ。その、絵のような姿を芳明は直視できずにいた。
「どういうおつもりです?」
「なにが?」
「あんな目で私をご覧になったり、接吻をなさりながら、今日は一度も私を」
俊紀は口の端だけ釣り上げて笑い、そうして、あの目で芳明を見た。
「子爵は、私の気持ちをご存知でありながら、ここへいらした。今度こそは覚悟がお有りだと、思ってよろしいのですね」
芳明は答えなかった。俯いて、俊紀に背を向けた。拒絶にも見えるその仕草。しかし、背中は無防備だった。
俊紀の手の温もりが、布越しにさえ、感じられる。
「震えているのですね。可愛い人だ」
「寒いのです」
「もうじき三月とはいえ、まだ春ではありませんね」
俊紀は右手を忍ばせ、鎖骨を小指でなぞると、そのまま芳明の顔に添え、仰向かせた。「温めて差し上げますよ」
接吻は、赤葡萄酒の味がした。
「初めて言葉を交わした日を、覚えておいでですか? 貴方は梅の木の下に佇んでいらした。梅の花が色褪せて見えるほど、美しかった」
裸のままで、俊紀は芳明の髪を弄びながら、話し掛ける。
体を擦り付け合い、絡め合うだけの情交に、芳明は今までに得たことのない満足感と、気怠さを抱いていた。
寝台の上から部屋を見渡すと、窓際にビスクドールがあるのが見えた。ずっとそこにあったのだろうが、位置が低すぎて気付かなかった。深い海のような青い瞳と、波打つ黄金の髪。
「あのビスクドールは、仏蘭西から?」
俊紀は、自分の言葉を一切無視した芳明に、不快そうな態度は欠片も見せない。
「母が、少女時代から大事にしていたものです。男の部屋には相応しくないと思いながらも、あの場所になければ寂しくて」
(あの人形は、いくつの情事を見たのだろう)
「芳明様」
優しい声に、芳明は顔を向けた。俊紀の顔が近づいてくる。芳明は目を閉じた。
ビスクドールの視線の中で、二人はまた、身体を重ねた。
「車を用意しましょう」
身支度を整えた芳明に、俊紀が、当然と言わんばかりの口調で申し出た。
「結構です。歩いて帰れる距離ですから、運転手を煩わせる必要はありません」
「私が運転致しますので」
芳明は、俊紀を見た。いつもの穏やかな表情。
「ご自身でなさるのですか?」
「仕事柄、軽快に動き回る必要がありますから。腕前はなかなかのものですよ」
芳明は、首を横に振って、辞退した。
「もしも、家人が起きていたなら、髪の乱れの言い訳をしなければなりません。今は丁度良い木枯らしが吹いております」
俊紀が、目を細めた。好色にも見える笑みに、芳明は少しだけ、体温が上がるのを感じた。
「仕方ありません。では、お気をつけて」
芳明のうなじに触れると、心底心配そうに言った。
静かに戻ったつもりが、足音を聞きつけたのだろう、久仁子が玄関で待っていた。
「まさか、起きていたのではないだろうね」
「さっきまで、芳和さんにお乳を差し上げてましたの。それからずっと、寝顔を見ていました。
どんなに美しい絵画でも、私の心をこれほどまでに満たせるとは思いませんわ。どうしてあんなにお可愛らしいのかしら」
頬を紅潮させて、久仁子は芳明から荷物を受け取りながら、はしゃいで見せる。
「私も、見たいな」
「えぇ、ご一緒に」
小さな蒲団の中で、芳和は眠っていた。生まれた頃よりもずっと、大きくなった体。表情も豊かになり、可愛らしさは増すばかりだ。
(この子がいる限り、私の罪が人に知られることはない。この子の存在が、私の罪を覆い隠してくれる)
そう考えて、芳明は静かに微笑んだ。
「どうなさいましたの?」
久仁子は芳明の顔を覗き込み、頬を赤く染めた。
「なに?」
「芳明さん、いつにも増して、お綺麗に見えますの」
はにかみながら俯く久仁子の頬に、軽く接吻する。
その時、久仁子が一瞬、なにかを感じたらしいことに気付いた。あら? といった表情を見せたのだ。一瞬のことではあったのだが、気になりつつも、恐ろしくて、問うことができなかった。
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