5月

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 子供の頃から絵を描くのが好きだった。  市の絵画展、県の絵画展でいくつも賞を受賞した俺を、周囲は盛大に持ち上げた。  高校生になる頃には俺には特別な才能があるんだと鼻を高くし、有頂天になっていた。  でもそれは、東京の美術系の大学に進学するまでの話だった。  絵がうまいやつなんてごまんといた。  ただ絵がうまいだけでは通用しない。求められているのは唯一無二の個性という才能。  そんなものは俺とは別次元の世界の話だった。  入学して一年間あがいた俺は自分の無価値を思い知った。  それでも両親が一生懸命働いて通わせてくれている大学だ。  二年生になった俺は無個性ながらも卒業するための単位取得と、就職するためにいかに有利な条件をそろえるかを模索しながら大学に通っていた。  我ながら夢のない話だと思う。  周りの人間はいかに自分の個性を発揮させるべきか悩みながらも突き進んでいるというのに、俺ときたらすっかり絵の道を諦めてしまったのだ。  でも、周りは周り、俺は俺。  そんなわけで、話の合わない俺に友達なんか皆無で、今日も一人ぽつねんと食堂で昼食を食べている。サバの味噌煮定食がうまい。 「里山春乃(さとやまはるの)くん」  いきなり名前を呼ばれて驚いた。  俺の名前を呼ぶのなんてせいぜい教員くらいだから、空耳かと思いきやそんなことはない。  俺の席の前に誰かが座った。  淡い柔らかそうな金色の髪、白い肌、淡いペールピンク色のパーカーがよく似合う男は、くっきり二重の茶色い瞳を細めた。 「あ、君が山里春乃くんか。よかった。やっと会えたね」  甘い、まるでどこぞのアイドルみたいに甘い顔立ちの男はそう言って、笑った。 「俺のこと覚えてる? ちょうど一週間前に、第三美術室でアカシヤ先生とセックスしてたんだけど……」 「わー! やめろ! やめろやめろ黙れ!」  俺は慌てて両手で目の前の男の口を塞ぐ。男は目をぱちくりさせた。周囲の学生達が何事かと俺に視線を向ける。  今の、聞かれてなかったよな?  次の瞬間、掌に生ぬるく柔らかなものが当てられた。 「ひえっ」  男の口から手をどけると、男は悪びれもせず舌を出していた。  舐めた?   こいつ、いきなり人の掌を舐めたのか?  男はにっと唇を吊り上げた。 「ね、俺のこと覚えてる? 春乃くんさ、一週間前に第三美術室に来たでしょ? で、俺とアカシヤ先生が……」 「分かった。分かったから黙れ。ちょっと黙ってろ」 「黙ってればいいの?」 「そうだ」  俺は男が黙っている間に残りの定食を口に放り込んで味噌汁で流した。  もっと味わいたいのに、こんな食べ方をしてしまうなんてもったいない。  涙を呑みつつ、ごちそうさまでしたと手を合わせると席を立つ。おぼんを返却口に返し、食堂を出るまで男は俺についてきた。 「グミ食べる?」  男がぶどうグミを勧めてきたので丁寧にお断りした。男はぶどうグミを食べながら、俺の後をついてくる。どこまでもどこまでもついてきた。 「なにしてんの?」 「人がいないか確認してるんだよ」  この男は間違いなく、一週間前に俺が見た若い男だ。  今さら俺を見つけてなんの話をしに来たのかは知らないが、多分、周囲に聞かれるとまずい話に違いない。だから俺は慎重に場所選びをしていた。 「なんだ、それならここ開いてんじゃん」  男は近くにあったドアをノックもせずに開けると、俺の腕をつかんで引き入れた。 「はい。これで誰もいない空間のできあがり」  ドアを閉めて男は言う。  そこは資料室のようで本棚にファイルが詰め込まれていた。普段はあまり人が来ないらしい。窓にはカーテンが引かれていて、ホコリっぽかった。 「さっ、なにしよっか」 「なにってなんだよ」 「え? 人が来ない密室空間ですることって言えば、それはエッチなことでしょ」  男は俺に手を伸ばすと、指先で頬を撫でた。  それだけで俺の肌が粟立った。 「やめろっ、触るな!」  男の手を払いのけ後ずさると、男は小首を傾げた。 「えー? なんで引いてんの?」 「ひっ、引くだろ、ふつう」 「そうなの?」 「そうだよ!」  なんなんだこいつ。不思議そうな顔しやがって。どういう思考回路してんだ。 「ふつう、男と男は、え、エッチな、こと、しないだろ」 「そうなの!?」  いや、本気で驚かないでくれ。まるで俺が間違えてるみたいじゃないか。  それなのに男は少し考えてから言った。 「ええー、でも、男とか女とか関係なくない? ムラっとしたらやっちゃうもんだと思ってたんだけど。別にどっちとしても気持ちいいのは変わらないし」 「か……、関係は、あるだろ。俺は、女の子がいい。あんなおっさんに犯されるなんて恐すぎる」 「あー、だからか」 「なにがだから?」 「だから逃げたんだね。でも、アカシヤ先生慣れてるから恐いことしないし、俺もいるし、大丈夫だったのに」 「なにが大丈夫なんだよ!?」 「えー? だから、入ってきてよかったのに。三人なら三人で気持ちよくなれる方法はいくらでもあるから……」 「やめろ! 俺をそんなアングラなヤバイ世界の住人と一緒にしないでくれ!」  俺が叫ぶと男はぽかんとした。  その唇が吊り上がる。「ぶはっ」と男は吹き出すと笑い出した。  なに笑ってんだこいつ。なにがそんなに男のツボに入ったのか分からない。そんな風に、腹抱えて笑うような発言をしたつもりはない。  憮然としている俺を前に、男はひとしきり笑うと涙を拭いながら言った。 「おもしろいね、春乃くん」 「なにもおもしろくない」 「おもしろいよ。俺がアングラで、ヤバイ世界の住人か。うん。言い得て妙!」 「認めるのか」 「まあね。俺って、ふつうじゃないらしいから」 「自覚あるのか」 「あんまりない」  男はえへんと胸を張った。 「偉ぶるようなことか」 「だって、俺は俺のしたいように生きてるだけだもん。それを周りがふつうじゃないって言うんだよ。自覚しようにも、ねって感じじゃない」 「共感を求められても迷惑だ。俺はお前のことなんてなにも知らないし、知りたくもない」 「なるほどなるほど。つまりアレだ。春乃くんは童貞?」 「は?」  男がなにを質問したのか理解できなかった。  ドウテイ?  ドウテイってなんだっけ?  思考が停止したまましばらく『ドウテイ』という単語が俺の頭の中をぐるぐるしていた。 「はあ!?」  ドウテイという言葉が童貞に変換された瞬間、かっと頬が赤くなった。 「そっかそっか。だからか。ウブだね。かわいいね」  口をぱくぱくさせている俺の肩を男は慰めるように叩く。 「かっ、かわいいじゃねぇし! バカにしやがって! なんだよ、セックス経験者がそんなに偉いのか! このホモやろう!」  男の手を振り払って俺は怒鳴った。 「ああ、いや、ごめん。怒らせるつもりじゃなかったんだけど」 「うるせぇ、黙れ。もういい」 「もういい?」 「お前が俺に話しかけてきたのは、あの時のことを誰にも言うなって口止めするためだろ。分かったよ。そもそも俺はお前になんて興味ないし、友達もいない。あの時のことを誰かに言いふらすような趣味はない。もう用事はすんだ。だからいいだろ」 「なにがいいの?」 「俺は帰る!」  宣言すると俺はドアに手をかけた。  さあ行くぞ。さっさとずらかろう。この密閉空間から逃げ出すんだ。  だけど、ドアは開けなかった。 「まだよくないよ」  後ろから伸びてきた男の手がドアを閉じてしまう。すぐ耳元で聞こえた声に、ぞくりとした。振り返るとすぐ近くに男の茶色い瞳があった。 「なにが……」  声が掠れた。  まだなんかあんのか? と、つっかかれなかった。  唇に、唇が触れた。 「春乃くん、俺は悲しいな」 「は……。は!? お前、今、き、き、き……」 「なんだかすごく勘違いされてる。俺が春乃くんに声をかけたのは、別にあの時のことを黙っててほしいからじゃないんだ。ただ単純に、春乃くんのことが気になったからだよ。絵画科二年生、里山春乃、デッサンが上手で緻密で正確な絵を描く。一年時にはいろいろ模索して、他の絵柄に果敢に挑んで作品作りをしていたけど、ある日突然それやめた。今は作品作りもそこそこに、教員免許取得に向けて勉学に励んでいる。アカシヤ先生が教えてくれた」  キスされた衝撃も相まって、俺は困惑した。 「だから、会いたかったんだ」 「は?」 「どんな人なんだろうって思った。こうして話してみたら、意外とぎゃんぎゃんうるさくて楽しい人だった。ねぇ、春乃くん、俺と友達になろうよ」  もはやこいつの発言してる内容に頭が追いつかない。  なにを言ってるんだ……? トモダチだと? 「俺は、お前のことなんか、知らない」  アカシヤ先生とデキてるっぽいイカレタ奴だということぐらいしか分からない。  だが、アカシヤ先生とデキてるっぽいイカレタ奴はなにを勘違いしたかにっこり笑った。 「ああ、自己紹介まだだったね。俺は声楽科のわらび。蓑屋(みのや)わらびだよ。これからよろしくね、春乃くん」  わらびと名乗った男はそのまま俺を抱きしめた。 「ひぃっ」  俺があげた悲鳴にもうれしそうに笑ってる、ヤバイ奴。  だけど、蓑屋わらび?   わらびという名は聞き覚えがあった。  わらびを思い出したのは自宅のアパートに帰宅してからのことだった。
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