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「蜜柑さん、大丈夫ですか……」
ゆっくり視界と理性が戻ってくると、聞こえてきたのが透子の声だと理解できた。私は椎奈に緩く抱きしめられていて、背中をさすられている。胸が異様に痛くて、思わず咳き込む。椎奈の手が私の背を滑る。
椎奈は何も言わない。透子は何度も私のことを呼んでくれる。一度呼ばれるたび、理性がどんどん私を現実に引き戻していく。フラッシュバックから救ってくれる。
やはり、透子は私にとっての女神だ。美しく、清い天使だ。椎奈が悪魔なのだとしたら、透子は片翼の天使なのだ。天使だらけの世界で、ほんの少しだけ異質で、優しい存在だ。
「良かった。まだそんなに経ってないから、ゆっくりしてていいですよ」
「……透子、さん」
「椎奈さん、保健室に行ってきますね」
「どうも」
透子が教室から駆け出していく。私は未だに椎奈の体に収まっている。心は冷たいくせに、椎奈の体は温かくて、少し眠たくなる。
抱きしめられたことなど覚えていない。いつぶりだろうか。それに、どうして私は椎奈に介抱してもらっているのだろうか。倒れる直前の記憶が真っ白で、まるでその部分だけ焼けてしまったフィルムを見ているようだ。
「あのさ……私に謝らないでくれる?」
「……え?」
「あぁ、まさか無意識? 君、何回も私に謝ってたでしょ?」
「そうなの……?」
椎奈が呆れたように言った。声のトーンは低く、不機嫌であることは察する。それでも、椎奈は手を離さない。
「なんとなく分かったよ。君が背負ってきたものとか、こうなっちゃった理由とか。惨めな人間に羽を毟り取られたってことも」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくれる? 私、理由無く謝られるの嫌いなんだよね」
「気をつける」
椎奈はおもむろに手を離し、私を背もたれ付きの椅子に座らせた。自分は角椅子を私の隣に持ってくる。そして隣に座ると、椎奈はまた背中をさすってくれた。
これが私の発作だ。でも、もう気持ち悪さも過呼吸も無い。ただ動悸がして体が痺れているだけで、それ以上は何も無い。
「悪かったよ」
「……どうして謝るの?」
「何でも言っていいと思ってた。これからは私も気をつける」
「気にしないで……アタシが悪いから。アタシに価値が無いのは、もう分かってるから」
「何があったのか知らないけどさ。君が他の人間といろいろ違っていたのは、分かるから」
椎奈の声は先ほどより柔らかく、人をあやすような甘いものになっていた。まるで存在し得ない母親の温かさのようで、私は体を離せずにいた。
甘えないでよ、と椎奈がきつく言った。本当に困っているのは分かっているが、力が入らない。
「私はさ……どう足掻いたって、人間が嫌いで仕方ないんだよ。本当はこういう人間。でも、もしも君がそれでもいいって言うなら、また話せばいい」
「……何を払えばいい? 命? 忠誠? それとも、ストレスのはけ口になれば……」
「何も要らないよ。言ったべよ、同じ屑同士、気を使う必要は無い。君にとっても、私と一緒にいることに価値は無い」
「私には、アンタの価値が重すぎる。アンタはそれでいいかもしれないけど、私には何も返せない……」
「要らないんだって、本当に」
おそらく、椎奈の言うことが信用できないのだ。愛とは利益であり、払えなければ債務を背負う恐怖であった私にとって、椎奈の論理は受け入れがたい。たとえ椎奈がじっとりとした目で私を面倒そうに見ていても、私には理解できないのだ。
答えに詰まった私に助け舟を出すように、透子が車椅子を持ってきた。後から保健室の先生が来る、と透子は言う。椎奈は気にせず、ケラケラと笑いながら透子に話しかけた。
「ねぇ、この人なかなか分かってくれないんだけど。友達になるのに理由なんて要る?」
「え、どうしたんですか」
「言ったとおり。私たちのためになることを何もできないから、透子さんとも私とも友達になれないんだって」
「オレも何かすべきですか……?」
「ほらね?」
椎奈は透子の肩に手を置いて笑った。まだ透子だけ何も分からず、頭の中でクエスチョンマークを飛び交わせている。
それは分かっている。だって、私にしか通用しない論理だからだ。価値が無いのは私だけなのだから。
けれども、一つ分かるのは、どうやらこの二人は本気で何の代償も欲しくないらしい。何も無くとも、二人の前では許される。差し伸べられる手はとても温かい。何も天秤に乗せる必要はなく、ただ私が皿に座っていれば良い。
嗚呼、そんなの、まるで、存在し得ない母親みたいじゃないか。私が何度も本で読んで憧れてきた、私を愛する、絶対的存在だ。
「ほら、車椅子に座って。先生が押してくれるって。私も説明のためについて行くからさ」
「お、オレもついていきます」
「そう、じゃあ手伝って」
されるがままに車椅子に座り、凭れる。女性の先生が冷静に椎奈と透子から話を聞いている。ゆっくり運ばれ、エレベーターに送られる。
思考は定まらず、頭はぼーっとしている。透子と椎奈が何を言っているかも理解できない。ただ、私が精神的なものから発作を起こしたのだと分かっているらしい。
保健室に着くと、先生は私の親に電話をかけ始めた。面倒で愚かなことだ。理解されないのが明らかなことはしなかったゆえ、親は神様時代から続く私の発作を知らない。
椎奈と透子は説明のために留まってくれると聞いたことだけが、私にとっての救いだった。もう私は、何かに縋って生きる人間に戻ってしまったのだ。
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